一
人っ子一人いない石畳に、陽炎だけがゆらゆら踊る。
通りの両脇には、不思議な形の建物の群れ。
卵、植物、結晶……
様々な物を思わせるそれらの建物たちには、同じ形は一つとない。
ただ、それらはみな白い色をしていた。
何の気配もないのに、どこか懐かしい白。
ここは、眠りの街。
誰もが息をひそめ、何かを待っている街。
とん、とん、とん。
白い街に、ノックの音がゆっくりと響く。
卵のような家の戸を叩いているのは、一人の青年だった。
そして、じっと耳を澄ます。
と、中からかすかな声。
それを聞くと、青年はふわりと姿を変え、一羽のめんどりになった。
くちばしでこつんと戸を叩くと、きい、とかすかな音がして戸が開く。
暗がりの中には、たくさんのひよこがいた。
入ってきためんどりの周りに集まって、一斉にぴいぴいと鳴きだす。
めんどりは、ひよこたち一羽一羽のそばに寄り、じっと暖めてやる。
しばらくすると、ひよこたちはみな、じっとうずくまって目を閉じた。
それを見て、めんどりは外にでた。
すると、その後ろで家が動いた。
深呼吸するようにゆっくり伸び縮みすると、ふうっと消えた。
それを見て、めんどりは青年の姿に戻り、そっと微笑んで次の家へ向かった。
とん、とん、とん。
青年が、小さな家の戸を叩く。
白い土で作られたような、素朴な家。
「……誰じゃね?」
小さな声がして、きい、と戸が開く。
中は三畳ほどの広さで、半分は土間、もう半分は一段高くなった畳だった。
その畳に、老婆が一人、背を丸めて座っていた。
「……どなたか知らんがの、ちょっと、話し相手になってくれんかの」
ゆっくりと、老婆が話す。
「……十年ぶりのお客なもんでの」
青年は笑ってうなずき、畳に腰かけた。
老婆が話す。ゆっくりと、楽しそうに話す。
青年は、時々うなずきながら、じっと聞いていた。
やがて、話し終えた老婆がゆっくりうなずいた。
青年はそっと立ち上がり、戸に手をかけた。
老婆は、まるで孫を見送るように手を振った。
手を振り返し、青年は家を出た。
その後ろで、家が動いた。
どっこいしょ、と立ち上がるように伸び、ふうっと消える。
それを見届け、青年はまた、次の家へ向かう。
* * *
一つだけ、戸のない家があった。
その家は、もうだいぶ前から、ずっとそこにあった。
でこぼこの形の、小さな家。
その前を通るたび、青年は足を止め、その中にいる誰かを思った。
そして、ふり向き向きしながら、そこを離れるのだった。
その家に戸ができるのを、彼は、じっと、待った。
あるとき青年は、その家の、自分の足元のところに、覗き穴ほどの戸を見つけた。
あ、と思い、その戸をそっと叩いてみた。
とん、とん、とん。
返事は、なかった。
青年は、ひとまず次の家へ向かった。
次にその家の所に来たとき、戸は少し大きくなっているようだった。
その次も、そしてその次も。
戸は、少しずつ大きくなっていき、ついに他の家と変わらない大きさになった。
だが、相変わらず返事はなかった。
――まだ早い。
青年は、じっと待った。
とん、とん、とん。
あるとき青年が、いつものようにその家の戸を叩くと、その戸は、ついに少し開いた。
中は、真っ暗な闇。
青年は、その中へそっと声をかけた。
「もしもし?」
返事は、ない。
「聞こえますか?」
ふと、部屋の隅で、何か動く気配。
ゆっくりと近づいてくる。
きい、と音をたてて、戸がさらに開く。
とっ、という足音を立て、一歩出てきたのは、一人の少年だった。
「ここ、どこだ」
かすかな声で、少年はつぶやいた。
白い街を見回し、少年は、自分を見下ろす青年と目が合った。
するどい目で、彼は青年を見上げた。
「いいですよ、そんなに緊張しなくても」
青年は、穏やかに言う。
少年は、それでも動かない。
青年は向きを変え、肩越しに振り返って言った。
「来ますか?」
――どこへ?
思わずそう訊き返しそうになるのを、少年はどうにかこらえた。
青年は、ふっと笑い、次の家へと歩き出した。
少年は、揺れる陽炎に溶けるように遠ざかる青年の後ろ姿をじっと見ていた。
やがてその足音も、物憂げな真昼の空気に吸われるように消えていった。
陽炎に揺らめく白い街の中に、少年は、ぽつんと立っていた。
隠れんぼの鬼になってとり残されたような淋しさが、不意に襲ってきた。
彼は、青年が消えていった方へ、あわてて走り出した。
たったったったっ、という小さな足音が、やがて道の向こうへ吸い込まれていった。
……とん、とん、とん……
遠くにかすかなノックの音を聞いたような気がして、少年は角を曲がった。
向こうに、白い家の戸を叩く青年の後ろ姿を見て、少年は立ち止まった。
すると、青年がくるりと振り返り、にっこり笑った。
少年は、ためらいがちに青年に近づいた。
どこまでも続くような石畳の上を、二人は歩いていた。
最初に話し始めたのは、少年だった。
「誰もいないんだな」
「ええ。でも、どの家にも、必ず誰かがいます」
青年は、静かにそう答えた。
「……なあ、ここ、どこなんだ?」
少しの沈黙。
やがて、青年は言った。
「……ここはね、あなた達の言葉で言うなら、『この世とあの世の間』です」
少年は、自分でもおかしくなるほど混乱していた。
そんな馬鹿なという思いと、やっぱりそうかという思いが、奇妙に混ざっていた。
どうにもならなくなった少年は、青年を見上げた。
青年は、話を続けた。
「生き物は、死ぬとあの世に行くんです。そこで何があるかは、僕もよく知りません。
ただ、ほんとに少しだけ、あの世にいけないものもいます」
青年は、道端の段々に腰かけた。
「死ぬ時に、何か悲しい事やいやな事があるとそうなるんです。そうなった魂はみんなここに来ます」
青年は、ぐるりと街を見回した。
「この家一つ一つに、そんな魂がいるんです」
「これ、全部?」
「ええ」
また少しの沈黙。
「じゃ、おれも? おれも死んだの?」
青年はそっと、だがしっかりとうなずいた。
「嘘だぁ!」
そう叫び、少年はだっと駆け出した。
眠たげな、けれどばかに明るい光が照る石畳を、少年は駆けに駆けた。
(嘘だぁ!)
心の中で、自分の声がはね返る。
だが、彼は本当は知っていた。これが嘘でないことぐらい。
でも、いや、だからその事から逃げたくて、彼はただ走った。
それ以上走れなくなるまで走って、ようやく彼は足を止めた。
道にへたり込み、大の字になった。
* * *
……お前、人間じゃねえだろ……
遠くかすかに、でも確かに、残酷な言葉が聞こえる。
……血、緑色してたりして?……
――あいつら、確かにおれにそう言った。笑いながら。
……いなくなっちまえよ……
――うるさい!
――黙れ!
――だまれ……
“そんなの、考えすぎだろ”
“君にも、原因はあるんじゃないの”
“ちょっと我慢すればいいのよ。それぐらいできるわ、あなたなら”
――何もわかってないくせに。
(誰も信じるな。味方なんていない。俺は一人ぼっち、とうに知ってるくせに)
(とうに知ってるくせに……)
――――――――――もう駄目だ!
彼は、飛び降りた。五階建ての、学校の屋上。
何てことのない、
夏の午後の、
出来事。
「……!」
少年は飛び起きた。
死んだはずなのに、背中はじっとりしていた。
ふと周りを見て、知らない街にいることを思い出した。
(……誰もいない)
ぽつんととり残されたような静けさ。
(そんなの、いつもの事じゃないか……)
でも、いつも心臓をぎゅっと締めつけられるような気がしていた。
あの、暗い家にいたときも。
じっと膝を抱えて、誰にも会うまいと思った。
でも、本当は……
ふと気づくと、傍らに青年が心配そうに立っていた。
なぜか泣きそうになり、少年はあわててそっぽを向いた。
とん、とん、とん。
青年が、白い家の戸を叩く。
奇妙な家だった。何か、気に入らないで暴れているような形をしていた。
きい、と音がして、戸が開いた。
戸の中から、低くうなる声がした。
戸口にのっそりと現れたのは、一頭の虎。
「うわ!」
少年が思わず後ずさると、青年がひょいとふり向き、わらった。
「大丈夫ですよ」
その時、青年の姿がふっと消えた。
「え?」
驚いて目をみはった少年は、不意に不思議な匂いを感じた。
眠っていた力が呼び覚まされるような、心が騒ぐ匂い。
すると、しきりに鼻を動かしていた虎が、すっと遠くを見た。
つづいて、うおおおおうというほえ声が通りを駆け抜け、一瞬街を揺るがした。
虎はそのままひとっ跳びで家に入り、戸が閉まった。
同時に匂いは消え、青年が現れた。
そして、青年と、あっけにとられる少年の前で、家が動いた。
自由になった動物のように、身を縮めて次の瞬間宙に踊り上がり、ふうっと消えた。
後には青年と、ぼうぜんとしたままの少年が残った。
「……何だったんだ、今の」
少年は、ようやくそれだけ言った。
「飼育係をかみ殺して、毒殺された虎です」
青年が答えた。
「飼育係の人は、彼が野生を忘れたと思って油断したんです。でも違った」
青年は、虎の家が消えていった空を見上げた。
「あの虎は、野生動物として当たり前の事をしただけだったんです」
少年も、空を見上げた。
「だから、なんで自分が殺されたのかわからなかった」
長い沈黙の後、少年がぽつりと言った。
「……悔しかったかな、あいつ」
「ええ。……だから僕は、彼が欲しがっていた野性をあげました」
「さっきの、あの匂い?」
青年は、ゆっくりうなずいた。
「彼が生まれた森の匂いです」
少年は、じっと青年を見た。
* * *
通りの真ん中に座り込み、二人は長いこと黙っていた。
やがて、少年が口を開いた。
「なあ、この街には、他にどんなやつがいるんだ?」
青年が答える。
「戸を叩いてみるまではわかりませんが、今まで、いろんな人が来ました」
彼はつづけた。
「卵からかえらなかったひよこ達がいました。一人きりで死んだおばあさんも、車にぶつかった猫も、捨てられた子供も」
少年は、じっと膝を抱えた。
「みんな戸の向こうで、誰かが来るのを待っていました」
少年は、小刻みに体を震わせていた。
小さく、しゃくり上げる声が聞こえた。
青年は、そっと少年の肩を抱いた。
彼にしがみついて、少年はいつまでも泣いていた。
* * *
少年は、あの小さな家の戸口にいた。
「おれ、どうなるのかな」
「心配することはありませんよ」
青年は、穏やかに言った。
少年は家に入り、戸口の青年を見上げた。
二人の間で、ゆっくりと戸が閉まっていく。
少年は、はっと大事な事に気づいた。
「なあ! あんたの名前、なんていうんだ?」
閉まりゆく戸の向こうから、青年の声が聞こえた。
「僕は、この街に来た人たちの『願い』です……」
そのとき、戸がぴったりと閉まった。
家の中が、淡い光でいっぱいになった。
少年の体は、その中にふわりと浮かんだ。
ふっと心が軽くなり、彼はそのまま眠りに落ちていった。
青年の前で、でこぼこだった家が、すっと丸くなった。
家はそのままゆっくりと宙に浮くと、ふうっと消えた。
そっと微笑んで、青年は歩き出した。
人っ子一人いない石畳に、陽炎だけがゆらゆら踊る。
通りの両脇には、不思議な形の建物の群れ。
卵、植物、結晶……
様々な物を思わせるそれらの建物たちには、同じ形は一つとない。
ただ、それらはみな白い色をしていた。
何の気配もないのに、どこか懐かしい白。
ここは、眠りの街。
誰もが息をひそめ、ノックを待っている街。
END