彼女が友人と待ち合わせしている時に、それは起こった。
そのビルの壁はマジックミラーになっており、道行く人はそこで姿勢やネクタイをちょっと直したりするのだった。彼女はビルの向かいの喫茶店の中で、その大きな鏡に映る人々を暇つぶしに眺めていた。
むこうから、くしゃくしゃの赤毛の青年がやってくるのが映った。何気なく彼女は鏡から目を離し、彼が実際にいるあたりに目をやった。と――
そこには、誰もいなかった。鏡の中だけに、彼はいたのだ。
彼女がぎょっとした瞬間、鏡の中の青年は鏡……つまり、彼女からみた「こちら側」……を見て、「しまったっ」という表情になり、身を翻すと一目散に駆け出して、たちまち人ごみにまぎれてしまった。
彼女は、少し遅れてきた友人に声をかけられるまでぼうぜんとしていた。
人の少ない公園で、赤毛の青年はつぶやいた。
「さっきはヤバかったな。俺が吸血鬼なのがバレるとこだった。自分が『鏡に映んない』の、忘れてたよ」
END