最初に見えたのは青空だった。
気が遠くなるほどゆっくりと流れていく雲。その向こうに、空がどこまでも遠く遠く、吸い込まれそうなほど深く……
「うわあっ!」
ひきつったような悲鳴をあげ、彼は跳ね起きた。途端に、周りの景色が目に飛び込んでくる。
彼はとっさに周りを見渡した。青空の下、一面の芝生に何本かの木。むっとするような草いきれの中に彼は倒れていたのだった。
カーキ色の軍服が、体に重くまとわりつく。頭に霧がかかったように、何も思い出せなかった。ただ、ずいぶん長いこと地面から離れていたような気がする…
(地面がある……?)
彼はおそるおそる、自分の体の下の地面に触れた。手袋ごしに、じゃりじゃりした土の感触。思わずうつぶせになった。芝が頬を刺す、ちくちくした感じ。そして、間違いない土の匂いがした。
(地面だ……)
ほっとして仰向けになった途端、体じゅうの痛みに気づいた。体をあちこちに打ちつけたような、引きつったような鈍い痛み。さっきは動いた体が、こわばって動かない。
不意に、ひょいと何かが顔の前に出てきた。驚いて見ると、自分を覗き込んでいる誰かの顔だった。
「だいじょうぶ?」
くしゃくしゃの黒髪の、小さな女の子だった。歳は7、8歳ぐらいだろうか。
「あ、ああ」
彼は起き上がろうとした。だが、痛みのせいでうまく力が入らない。それでも何とか身を起こすと、女の子の脇に座った。
「だれか、呼ぼうか」
「ああ……」
「じゃ、待ってて」
真っ白なワンピースをひるがえし、裸足で芝生を蹴って女の子は走っていった。その背中には、白い翼がついていた、ように見えた。
(夢か?)
にしては痛い。
次に襲ってきたのは吐き気と頭痛だった。
彼はよろよろと立ち上がり、足をひきずって木陰に動いた。
どさりと座りこんで木に寄り掛かり、首に食い込む鉄カブトのひもを震える手で解き、カブトをなんとか脱ぎ捨てた。ぼさぼさの金髪に風があたり、少し楽になった。
と、遠くから、誰かの声がしたような気がした。
はっと耳をすますと、今度はもっとはっきり聞こえた。
「おーい」
さっきの子の声だ。なんとか顔を上げると、あの女の子が、彼より三つ四つ年下と思われる(彼は二十歳になったばかりだった)少年を連れて走ってきた。その少年はTシャツに焦茶のズボンで、スケッチブックを抱えていた。
「だいじょうぶ?」
女の子が彼を覗き込み、さっきと同じことを言った。すると、少年が彼の目の前に何かを差し出した。
見ると、それはビスケットだった。途端に空腹を覚え、彼はそれを奪い取るようにして食べた。すると少年がまたビスケットを差し出した。彼はまたそれをむさぼった。それを十度ほどくり返し、彼がようやく落ち着くと、少年はにっと笑ってみせた。
「……ありがとう」
彼は少年に、かすれる声でそれだけ言った。
「ねえ、あれ、どうしたの」
女の子が、他の木の下を指さした。見ると、ハンググライダーに籠をつけたような一人乗りグライダーが投げ出されていた。
その途端、何かとてつもなく恐ろしい記憶が心をかすめた気がした。が、次の瞬間にはそれはもう消えていた。
「ああ……あれか。何だろう、覚えてない」
だが、どこかで見たことはある。彼の心はざわめいた。覚えている。確かに覚えている。
何だろう、思いださなきゃいけない……
だが、疲れ切った彼の体は、それを許さなかった。彼はすうっと眠くなるのを感じた。もういいや、休んだっていいだろ? 俺は精一杯やったんだ……
(……何を?)
心の中のかすかな声で、彼は我に帰った。
(俺は、何を精一杯やったって?)
途端に意識がはっきりする。
(俺は、何をやっていたんだっけ?)
すると、辺りがふっと暗くなった。ぎょっとして跳ね起きた彼の首筋に、冷たい物が絡みつく。
――なんでお前だけ生きてるんだ――
耳元でささやく声。その主を、彼は知っていた。ついこの間まで一緒の船に乗っていた上官だった。
――俺達はみんな死んだんだぞ――
他の仲間も、いつのまにか彼を取り囲んでいた。無数の冷たい手が彼に伸びる。触られた所から、どんどん体が冷えていく。
ふっと体が軽くなり、気がつくと彼はたった一人で自分の死体を見下ろしていた。
(俺も死ぬんだ)
彼は、死体に背を向け、そこを離れようとした。
すると、彼の服の裾を誰かが引っ張った。
振り向くと、あの女の子と少年が立っていた。
「行っちゃうの?」
女の子がぽつりと訊いた。
「俺は、生きてちゃいけない」
彼は、ぽつりと答えた。記憶は、とうに戻っていた。
* * *
『富国強兵』の名目で徴兵された彼らが向かったのは、空に浮いた島だった。
軍の高官から話を聞かされたときは誰も信じなかったが、本当にそれを見たときは、みんなあっけにとられるばかりだった。
上陸してしばらくは掠奪が続き、彼も宝石をいくつかポケットにねじ込んだ。
が、いくらもたたないうちに彼らは呼び戻された。大佐が裏切ったらしく、それを捜すために隊列を組んで島の外輪に出たとき、急に地鳴りが起こり、外輪が崩れた……と思ったが、下に少しずれたところで止まった。
ほっとした彼らの耳に、今度は大佐の声が響いた。
驚きと恐怖で話がほとんど分からないでいると、隊列が急に前に動き、しばらくして止まった。先頭の連中は中に入ったようだったが、彼はまだ外輪にいた。
中の様子が全く分からずじりじりしていると、島の底から真下の海に向かって一筋の閃光が走り、次の瞬間、殴られたような目まいがした。すさまじい光と音が頭の中で荒れ狂い、ようやく目を開けると、海面に太陽のような火がふくれあがっていた。
『悪魔の火だ』そう思った。
金縛りにあったように、息をする事すら忘れていた。
と、突如、列が前の方から強く押され、外側にいた彼は外輪から弾きだされそうになった。とっさに誰かがつかまえてくれたお陰で助かったが、外輪はパニックに陥っていた。何か大変な事が起こったらしい。恐怖はすぐに伝染し、全軍が潮のように船へと退却していった。
が、先に逃げたはずの者たちがなぜか急に戻ってきた。そのため衝突地点の人間は行き場を無くし、狭い外輪から何人もが落ちた。彼は夢中でその中をかいくぐり、やっと人ごみから抜け出し……
一瞬、立ちすくんだ。巨大な物が目の前に立ちはだかっていた。
膝ががくがくと震えた。それが何なのか、彼は知っていた。
要塞を、たった一機で火の海にしたロボットだった。
彼は戻ろうと振り返った……が、人ごみの頭越しに同じようなロボットが見えた。
(挟まれた!!)
ぞっとしてもう一度振り返ると、ロボットがすぐそこまで近づいていた。
すると、何人かが大声を上げながらロボットの脚の間をくぐっていった。とっさに彼も後に続き、その脚をかいくぐった。
だが、ロボットは一機ではなかった。さらに何機かが行く手をふさいでおり、ニ、三人が蹴られたり踏まれたりして命を落とした。
しかし彼は生き延びた。船の桟橋がすぐそこに見える。あと20メートル走れば……
だが、その目の前で人もろとも桟橋が落ちた。船が飛びたったのだ。
「嘘だろ!!」
愕然とした。もう帰れないだって!?
後ろからロボットがせまってきた。望みは絶たれたのに、彼はなおも逃げ続けなければならなかった。
外輪では、とり残された者が大勢右往左往していたが、ロボット達に追い詰められ、生き残りは着実に減っていた。
と、何かが炸裂する音が聞こえた。鼻をつく異臭にはっとして見ると、人間らしき物がぼろ布のようにちらばっていた。続いて二発目、三発目。そのたびに外輪が大きく揺らぐ。
突然彼は気づいた。これは、俺たちの船の砲撃じゃないか!!
味方が外輪に残されていてもおかまいなしなのだ。
すると、外輪のロボットたちが飛びたった。島の底からもたくさんのロボットたちが出てきて、見る見る船に群がっていく。
(あの船はもうだめだ)
船が落ちる。爆発の中、人や破片が雨のように降っていく。
その間を、烏か何かのようにロボットたちが舞っている。
「は……ははははっ!」
彼の近くで、引きつったような笑いが起きた。びくっとしてそちらを向くと、一人の兵士が銃剣を振りかざして襲いかかってきた。
「ははははは! あっははははは……」
その目は、完全に異常だった。
「……!!」
恐怖に駆られ、彼は自分の銃剣で相手を殴りつけた。相手は外輪から足を踏み外し、長い長い悲鳴の尾を引きながら落ちていった。
震えながらそれを見ていた彼は、ロボットたちがこちらに戻ってくるのを見た。船を仕留め終え、外輪の生き残りを一掃するつもりなのだ。
(もうだめだ)
足が凍ったように動かなかった。ロボットたちはどんどん近づいてくる……
突如、外輪が小刻みに震え出した。これまでの地鳴りとは明らかに規模が違う。
「な……何だ!?」
それに合わせて、ロボットたちも動きを止めた。そのまま、糸の切れた操り人形のように次々に落ちていく。
ごっ、と足場が崩れた。慌てて彼は走り出した。走るそばから足場は崩れていく。彼は死に物狂いで走ったが、ついに崩壊が彼に追いついた。
「うわああああ!?」
落ちていく彼の目に、太い樹の根が映った。無我夢中でそれにしがみついた彼の目の前で、島の下半分が大崩壊を起こした。大きなブロックがいくつも降っていく。彼の頭の上にも砂利や小石が降りそそぐ。
無限とも思われる時間が過ぎ、不意に崩壊がやんだ。
(生きてる……?)
顔を上げると、もつれ合った大きな樹の根の端の方に、彼はたった一人でつかまっていた。
彼は、樹の根の中に向かって声を張り上げた。
「おぉぉい!誰かいないかぁ!!」
だが、かすれたその声は、遠くまで響かずに風に消されてしまった。
彼は、根づたいに動いて人影を探し回ったが、生き残っているのは彼一人だけのようだった。
彼は、根のくぼみにがっくりと座り込んだ。もはや何の望みもなかった。
ぼんやりと宙に視線を泳がせた、その時。
彼の目は、根の先に引っかかっている何かをとらえた。
(おい、ちょっと待て。あれはまさか……)
彼は、夢でも見ているような気持ちで近寄った。
それはまぎれもない、船の緊急用グライダーだった。
船の爆発で放り出されたグライダーが、島付近の対流に巻き込まれてどこかに引っかかり、大崩壊を生き延びたのか。
彼はおそるおそるその翼を開いた。多少砂をかぶっていたが、完全な姿だった。
彼は夢中で乗り込み、おもいきり樹の根を蹴って飛びたった。一刻も早くここを離れたかった。
グライダーについていたコンパスで方角を確かめ、進路を調整した。この方角に飛べば帰れるはずだ。
体が震えだした。危険は越えたはずなのに、恐ろしかった。
彼は独りだった。この広い広い海の上で。
たった独りぼっちで飛んでいた。
夜、うとうとするたびに、仲間の亡霊が後を追ってきた。翼にまとわりつき、ただ一人生きている彼を責めた。時々、その顔があのロボットになる。
それが三日三晩続き、四日目の夜、とうとう彼は気を失った。
そして、気づいたらあの芝生に倒れていた。
* * *
ここまでを、どもりどもり彼は話した。
「俺一人生き残ろうなんて、無理なんだよ」
彼は、死体の脇に座り込んだ。
女の子は、悲しそうに彼を見た。
と、少年が、彼にスケッチブックを見せた。
彼は息を呑んだ。そこに描かれていたのは、彼の両親だった。
「いいの?」
女の子が、彼に訊いた。
「まだ、帰れるよ」
彼は、ゆっくり顔を上げた。泣きそうな声でつぶやいた。
「……帰りたい……」
女の子は、にっこりした。
「ね、帰らなきゃ」
女の子は、死体を指さした。彼は、震える手でそれに触れた。すると、その中にすうっと吸い込まれていくような気がして、意識が遠くなった。
最後に見たのは二人の笑顔、そしてスケッチブックの中の両親の顔だった。
はっと気づくと、海面すれすれを飛んでいた。
あわててレバーを引くと、グライダーはふわりと舞い上がった。
ほっと息をついた彼は、東の方から暁の光がさすのを見た。
その時、翼の付け根に何か挟まっているのに気づいた。
引き抜いてみると、それは真っ白な羽根だった。
それをしっかり持ち、彼が顔を上げると、水平線に影が見えた。
目を凝らすと、朝焼けの中、陸地がくっきりと見えるのだった。
(ね、帰らなきゃ)
女の子の声が、心の中に響く。
目の前の陸地がぼうっとかすむ。
長い長い夜を抜けて、グライダーはただ真っすぐに家路をたどっていた。
END