「この戦いがどういう道をたどるかは分からないが、その結果は明白である。自由と恐怖、正義と非道は、常に戦ってきた。そして、その戦いにおいて神が中立ではないことを、われわれは知っている」
一
腕に貼られた小さなバンソウコウを、彼女はしげしげと眺めた。
注射の痛みは、針を刺された次の瞬間には消えていた。1ccの透明な液体はあっけなく彼女の体に入っていき、あとの傷口を速やかにバンソウコウが覆った。
それきりだった。
だが、拍子抜けするほどあっさり終わってしまったその儀式は、同時に彼女を二度と後戻りできない道に追い込むものでもあった。
そしてそれを望んだのは、他ならぬ彼女自身だった。
「これで、仕込みは終わりだ。あとは手筈どおり、案内の者についていけばいい」
注射器を置いて、男は言った。彼女が今まで聞いたことのない、静かな声だった。
「わかってる。荷物は持ってきたから、もう出られるわ」
腕に目を落としたまま、彼女は答えた。
男がさらに簡単な注意と確認をし、彼女はだまって聞いていた。一切がひどく淡々と進んでいた。
ぎい、とドアの開く音。彼女は顔を上げた。
足を引きずりながら入ってきたのは、やつれた中年の女だった。女はそのまま彼女を抱きしめ、低くすすり泣きながらその背をなでた。
だれも、何も言わない。
やがて、ドアをノックする音。男が、彼女にうなずいて見せる。
彼女もうなずき返し、自分を抱く女の目を見る。
女は彼女をもう一度抱き寄せ、低くささやいた。
「……母さんは、いつもお前のそばにいるからね。そして、神様がお前をお守りくださるように祈っていてあげるよ……」
彼女も腕を回し、女を抱きしめると、ゆっくりと身を離した。
ドアが開き、別の男が入ってくる。その男について、彼女は部屋を出た。
最後に一瞬だけ、振り返った。
二
休日のターミナル駅は賑わっていた。人の流れに従って、アリスは切符売り場に並んだ。
――双子だっていうから、何がいいかしら。やっぱりおそろいの食器?
ついこの間、出産した友人が無事退院したので、お祝いに行きがてら赤ちゃんを見せてもらおうというわけだった。
友人の住む街の大型デパートには乳幼児用の商品が揃っていると、他の友人から聞いていた。
彼女のすぐ前の人物が切符を買い終え、すっと売り場を離れた。
コインを取り出しながら、アリスは何の気なしにその人物の顔を見た。アジア系の若い女だった。
続いてコインを券売機に入れたとき、アリスはもうそのことを忘れていた。
* * *
中央の座席に陣取り、イノックはポップコーンをほおばった。
開演までまだ間があるが、この好ロケーションを離れる気はなかった。何せヒット作品で、封切り以来どこも満員御礼が続いているのだ。
「かつてない感動!」だの、「全米でスター・ウォーズを抜く興行成績」だのいう煽り文句も、今度ばかりは信憑性があるらしい。この場所を取れた幸運に酔いたかった。
ふと、斜め後ろで軽い咳の音がした。女の声だな、とかすかに思った。
コーラを一口すすり、イノックはそれきりそのことを忘れた。
* * *
エリザベスは、缶詰のトマトをいくつかカートに入れた。
必要なものは、もうひととおり揃えていた。田舎から娘夫婦が孫を連れてくるので、ジュースを多めに買い足すつもりだった。このスーパーは安い上に品揃えが多いので、随分助かる。
野菜売り場を通り過ぎる時、マスクをつけた若い女性が鼻をすすっていた。
――嫌ね。今年の風邪は長引くって言うけど。
だが、その先の肉売り場に入った時には、もうそのことは記憶になかった。
三
異常だ、とクラーク医師は思った。他の言葉は浮かばなかった。
アメリカでは、毎年10月頃に流行りだす病気がある。インフルエンザだ。
今シーズンもAソ連型(H1N1)の流行が起こり、各医療機関は対応と警戒を続けていた。が、12月上旬ごろから、ニューヨーク州を中心に奇怪なウイルスが流行を始めた。
通常、インフルエンザは1週間から2週間ほどで症状が和らぐとされている。が、このウイルスの感染者は違った。高熱、筋肉痛、呼吸器疾患などインフルエンザに酷似した諸症状をそのままに、3週間経っても熱が下がらず通院を入院に切り替える者が激増しており、年が明けた1月22日現在、各病院はパンク状態に陥っていた。
回復する者もいるにはいるが、長期間の高熱のせいで脳などに後遺症が残る場合が多かった。症状が和らがないまま衰弱し、死亡する老人や子供が続出しているのは言うまでもない。
そしてもう一つの特徴は、感染率の際立った高さだった。
新型のインフルエンザが流行した場合、アメリカでは8万人から20万人もの死者が出ると予測されている。
1月22日現在、マンハッタンだけで人口約150万人のうち5万人が、このウイルスで発病。まだ症状のない感染者はその何倍にも上ると思われる。
そしてそのウイルスは最新の交通網に乗り、アメリカ全土、さらには世界へと、その版図を広げつつあった。
このウイルスを食い止めるワクチンは、まだ完成されていない。
クラーク医師は、休憩室の椅子に崩れ落ちた。疲労は「極限」などという状況をとうに越している。起きていられるのが不思議なぐらいだった。
彼は、カルテを手に取った。ついさっき死亡した女性だった。
アリス・ウィリアムズ、32歳。新型インフルエンザにより肺炎を併発、1月22日15時39分死亡確認。
この病院に最初に患者が担ぎ込まれたのは12月18日。以来患者数は日を追って増えるばかりである。
……そして、恐らくは自分も、という確信。
すでに何名もの医師が病魔に冒され、うち2人が死亡している。
四
ファーティマは商店街を抜け、路地裏にうずくまった。
今度こそ限界だろうな。そう思った。
(……アメリカに着く頃には、お前は立派な病原体だ)
マンハッタンに来て、すでに2か月以上が経過していた。
(……このウイルスの潜伏期間は1日から3日、通常のインフルエンザと変わらない)
到着してからというもの、彼女はマンハッタン中を動き回った。
ターミナル駅、話題作上映中の映画館、スーパーマーケット、およそ人が集まりそうな場所へはどこにでも行った。
(……だから、この薬を一日一回飲むといい。ウイルスが死ぬことはないが、発病を遅らせられる)
お陰で、薬が尽きるまでの1か月半、何のトラブルもなくウイルスをばらまけた。
結果は、ご覧の通りである。
(……前にも言ったが、致死率はインフルエンザよりも数段上だ。薬が切れればお前も発病するだろう)
不意の高熱は、薬がなくなってから2日後に襲ってきた。それでも、最初の1日はなんとか動いた。
が、2日目以降は、アパートに閉じこもりきりだった。
看病は、仲間がしてくれた。彼らも死ぬ覚悟はあるようだった。
(……おそらく、お前は帰っては来られまい)
しかし今日、彼女は外へ出た。今さら、という気もしたが、もう一度出歩いておきたかった。
そして今ここで、こうして死にかけている。
それでよかった。
(……お前に神のご加護があることを、心から祈っている……)
意識が急速に遠のいていった。
五
目をあけると、防護服を来た人物が目の前にいた。
「私がわかるかね? ここは病院だよ」
くせのある英語で、相手はファーティマに話しかけた。医者のようだった。
防護服の中の顔には、斜めに傷跡が走っていた。変な顔だな、一瞬そう思った。
「お前さんはミドルタウンの路地裏で見つけられて、担ぎこまれたんだ。あんな高熱でどこへ行こうとした? 救急車も呼ばずに」
「……先生」
ファーティマは口を開いた。
「……だってこれは、私がやったんだもの……私が、これをばらまいたの……」
防護服の中の相手の顔が、一瞬凍りついた。
「ばかな! マンハッタン中のこの病気は、お前さんのせいだって言うのか!?」
「……そうよ……」
「一体全体、どこからこんなものを持ち込んだ!」
「……先生……」
ファーティマは、かすれた声で言った。
「……私、パキスタンから来たの……」
相手の目が、大きく見開かれた。
「……お前さん、アフガン難民か!」
「……アメリカの爆撃で、家は吹き飛んだ……私と母だけが残ったわ……」
「このウイルスは、パキスタンで手に入れたのか?」
「……パキスタンにいる、アフガンの同志から……随分、あっけなく済んじゃった……」
「あっけなくだと!?」
不意に、医者が声を張り上げた。
「患者の事情なんぞ私は知らんが、よくまあここまであっけなくやってくれたもんだ! おかげで、私みたいなモグリまで手一杯だ」
「……私の家族だって、虫ケラみたいに死んだわ……」
「なら、余計くだらん! こっちは一人助けるのだってせいいっぱいなんだ」
「……先生は知らないのよ」
不意のファーティマの言葉に、医者の言葉が止まった。
「……先生は、知らないのよ……アメリカが私に……私たちの国に、どれだけの物を背負わせたと思う?……私は、あいつらに背負わされたものを……そのまま返してやったの……」
相手は、何も言わない。
「……私たちの家族は、この国で報道もされなかった……そしてアフガンは、それっきり忘れ去られたわ……だからこうして、あいつらに……教えてやった……」
言葉が途切れた。医者は傍らの看護婦に怒鳴った。
「患者、意識喪失! チャン先生を呼べ!」
六
看護婦が飛び出して行くと同時に、医師は傍らの注射器を取り上げた。
「あんたが元凶だって言ったな……あんたの血を少しもらうぞ。なにで抑えてたんだか知らないが、こんなに長いこと発病しなかったんだ。もしかすると抗体ができてるかも知れん」
医師はファーティマの血を採ると、彼女の顔を見下ろした。
「あんたに背負わされたものを、あんたに返してやるよ。あんたやアメリカが殺し続けるなら、私は治し続けてやる。この国の人間だって、あんただって、治し続けてやる」
不意に、彼の脳裏をよぎる記憶。
轟音。死ぬほどの苦痛。植物状態の母。逃げた父。地獄のようなリハビリ。
そして……自分と家族の運命を狂わせた5人への、復讐。
「……私だって知っている。知っているさ……だがな……救うのが、医者なんだ……」
絞り出すように、声を出す。
その時ドアが開き、女医が駆け込んできた。
「先生、ブラック・ジャック先生! この患者ですか」
医者……ブラック・ジャックは、相手に向き直った。
「ああ、すぐに処置を頼む。私はこいつの血を調べてみる。いいか、絶対に死なすなよ!」
(完)
――――――――
というわけで、正解は手塚治虫の「BLACK JACK」。
<参考資料>
インフルエンザについて
・日本医師会ホームページより
インフルエンザQ&A【一般の方々のために】
インフルエンザQ&A【医療従事者の方のために】
・土川内科小児科より
かぜ・インフルエンザの合併症
マンハッタンについて
・City of New Yorkより
New York City Informations
アフガンについて
・ネットワーク「地球村」より
アフガニスタン難民支援活動報告
冒頭の言葉
・在日米国大使館より
米議会上下両院合同会議および米国民に向けた大統領演説(日本語試訳版)
の、終わりから3段落目を全文引用。ブッシュ御大の御言葉です。
ブラック・ジャックのセリフ
「こっちは一人助けるのだってせいいっぱいなんだ」
・マンガ「BLACK JACK」
「病院ジャック」の回、最終ページより。セリフうろ覚え。