1
『もしもし?』
「あ、もしもし。レッシュ、俺だよ」
『……ルイス!』
「ああ。元気だったか」
『うん。……ねえ、明日でしょ? 明日来てくれるんでしょ?』
「そうだ。ずいぶん待たせて、悪かったな。明日6時に迎えに行くから」
『……わかった。待ってる』
「ああ。それじゃ、明日な」
『うん。明日』
2
明かりのつき始めたビル街の向こうに、夕焼け空が見える。
駅の外で、ルイスは腕時計に目をやった。5時45分。余裕は充分だ。
(駅を出た後、銀行の角を曲がって……)
家路を急ぐ人々の中、記憶をたぐりながら道をたどる。
(……商店街を突っ切って、陸橋をくぐって……)
夕暮れのざわめき。どこからか、おいしそうな匂い。
(……そこから三つ目のビルの間を入る……)
ビルの隙間の狭い道。一歩ごとに、街の音が遠ざかる。
(……そこを抜けると、真正面に本屋があって……)
……が、本屋はなかった。代わりに、
3
薄暗い路地があった。
(……!?)
見覚えのない風景。道を間違ったかとあわてて振り返ったが、たった今その間を通り抜けたはずの二つのビルはあとかたも泣く消え、同じような路地が続いていた。(もっとも、それは彼のすぐ後ろで折れていたので、その先はわからなかったが。)
(ど、どうなってんだ……)
ひとまず戻ってみる。道は彼がやっと通れるぐらいの広さで、だいたい二十歩ごとにめちゃめちゃに折れ曲がったり、いくつにも分かれたりしていた。
両側の家(?)も奇妙で、壁ばかりだったり扉がなかったり、とにかくまともな物はなかった。
そして、奇妙に静かだった。聞こえるのは、自分の足音だけ。
五つ目の角を曲がったところで彼はあきらめ、立ちつくした。
(どうすりゃいい……)
自分を待っているレッシュの姿が浮かんだ。彼より13年下の、12歳の従妹。
(行かなきゃいけない、迎えに行かなきゃ……)
と、どこからか気配がした。いや、「予感」と言ったほうがいいか。
どこかに、レッシュがいるような気がした。
(……レッシュ?)
そんなはずはない。あの子は今……
でもなぜか、その予感は消えなかった。
彼は、来た道を戻り始めた。
迷路のような路地を、彼は進んだ。
ある扉のない家をのぞいてみると、そこには部屋一つしかなく、壁の一輪挿しには赤い花が一輪、床には雑誌があった。
またある家は、壁一面が本棚だった。
レッシュの気配は、やはりどこかにある。
近づいたか、それとも遠ざかっているのか、あるいは変わっていないのか。
もうだいぶ歩いたはずだが、路地はまだ続いている。
足が痛くなってきた……と思ったとき、路地がきれた。
4
真っ青な空が目に飛び込んできた。
道幅はそう狭くなく、通りと呼べそうだった。
両側には白い建物が並び、コンクリートの道にくっきりと影を落としていた。
店のような建物もあったが、のぞいてみると中はがらんどうで、看板もない。
(あの子、ここに来たな)
なぜかそんな気がした。
いくつ目かの角を折れると、目立たないような所にコンクリートの四角い池があった。家の風呂場ぐらいの広さだったが、深さはありそうだった。
彼はふと、のぞきこんでみた。
(……!!)
彼の背丈の三倍はありそうな深さの、ほの暗いその水底に、男の死体が眠るようにひっそりと沈んでいた。
その顔に、見覚えがあった。
(叔父さん……!)
間違いない、レッシュの父だった。
続いて頭をよぎったのは、従妹の事だった。
(……あの子は見ただろうか、これを?)
たまらなくなり、彼は立ち上がった。
5
街の外れに温室があった。あまり花は咲いていなかった。が、中に入ってみた。
中は庭園のようになっており、通路を進んでいくと、かすかに花の香りがした。
小さなアーチをくぐろうとしたとき、後ろで何かが動いた気がした。あわてて振り返ったが誰もいなかった。
(どうする?)
一瞬考え、彼は引き返した。
6
温室を出ると、そこは高い土手になっていた。
見渡す限り一面の草原で、彼の立っている所のすぐ先の急斜面の下には、どうしてかレッシュの家、今はもう他人のものになっているはずの家が、右側からの夕日を浴びて建っていた。
彼は土手を駆け下りた。家の扉を開け、中に入った。
7
中は、小学校のようだった。が、教室を区切る壁や扉はなく、扉があるはずのあたりで子供たちが腕を伸ばしてアーチをつくっていた。
休み時間なのか子供たちは楽しげに笑いさざめき、そのアーチをくぐったり他の遊びをしたりしていた。
だが彼には、その声はまるでどこか遠くから聞こえてくる幻のように感じられた。
彼はその中に、レッシュの姿を探した。
ふと、音がだんだんと小さくなっていく気がした。それにつれ、風景も次第に遠ざかっていく。
遠く、もっと遠く、とおく、とおく ……
8
はっと気づくと、すぐ横にレッシュが座っていた。
(……レッシュ!)
だが、その声は届かなかった。その肩をたたこうとした彼は、自分の姿が見えないのに気づいた。
彼は今、意識だけの存在になっていた。
どうやらここは、自動車の中らしい。レッシュ、そして意識だけの彼は、後部座席に座っていた。
運転席にいるのは、
(叔父さん……!?)
さっき死体になっていたはずのレッシュの父、そして助手席には、
(……叔母さん……)
レッシュの母。
……どうして? だって、二人とももう、この世には……
だが、三人とも楽しげにしゃべっていた。
けど彼には、それは聞こえなかった。一切の音が今は消えていた。
レッシュが笑っている。両親と一緒に。
今は、そんな事はもうないのに。
泣きたかった。でもそれはできない。
泣く体さえ、彼にはなかった。
ふいに、かすかな雑音が耳に入ってきた。それは、次第に大きくなっていった。
あたりを見回した彼は、前から大型トラックが近づいてくるのを見た。
叔父が、あわててハンドルを切る。だが間に合わない。
(……ぶつかる!)
そのとたん激しい衝突音。世界がはじけた。
意識が砕ける。あらんかぎりの声で叫んだ。
(――――――――――――――レッシュ!!)
9
気がつくと、本屋の前に立っていた。
耳慣れた街の音。何事もなかったように人々が行き交っている。
(……白昼夢?)
はっとして時計を見ると、5時55分だった。
(!)
夕闇の中、いっさんに走り出した。
レッシュの両親は、2年前に他界した。交通事故だった。
後部座席のレッシュひとりが助かった。
親戚で話し合った結果、ルイスが彼女をひきとる事になり、その手続きが全て終わった今日、彼はレッシュを迎えに来たのだ。
走る。通りの向こうに看板が見える。
〈児童センター〉
あそこだ。左右を確かめ、一気に渡る。
建物に駆け込み、受付に名前を言う。
荒い息で椅子にへたり込んで、壁の時計を見あげた。
ちょうど6時だった。
「……ルイス?」
小さな声がした。
顔を上げると、少し離れたところに、女性職員に付き添われたレッシュがいた。
立ち上がった彼の腕の中に、レッシュがとびこんできた。
(よかった……)
彼は、小さな従妹をぎゅっと抱きしめた。
10
日が沈んだばかりでまだ少し明るい街を、二人は並んで歩いていた。
みな家へと帰るのか、人々は思い思いの道をたどっていく。
「……あのねルイス、あたし、お昼寝してたの。ルイスが来るちょっと前」
レッシュが口を開いた。
「たくさん夢、見たの。変な路地裏とか、お父さんが沈んでる池とか、温室とか」
ルイスはどきりとした。これは……
「あと、あたしの家とか、学校とか、それから……事故の夢」
声が小さくなった。
「そうか……恐かったろ」
「……うん」
どちらからともなく、二人は手をつないだ。
少しして、ルイスはさりげなく聞いた。
「なあレッシュ、俺は夢に出てきた?」
「うん……なんかね、どっかにいる感じがした」
「そうか……」
やはり、そうか。
(俺は、この子の夢に入り込んでいたんだな)
……なぜ? それはわからない。
11
動きだした列車の座席に、二人は並んで座った。
向かいの窓の外を、ビルの灯りが横切っていく。レッシュは、それをじっと見ているようだった。
ルイスは、ついさっきからの事をぼんやり思い出していた。
……なぜ? なぜあんなことが?
それはわからない。たぶん、永遠に。
もしかすると、この夕暮れという時間に、この子と自分と、二人の心が重なったのかもしれない。
それはちょうど、昼と夜とが溶け合うように。
……それでいい。それで。充分じゃないか。
ふと、自分に寄りかかるレッシュの体重を感じた。
傍らを見やると、レッシュは小さな声で歌っていた。
ルイスは、なぜかほっとした。後ろの窓を見ると、彼の街の灯りがもう近づいていた。
そこへ向け、列車はゆっくりと進んでいく。
彼は、レッシュの肩を抱いた。
大丈夫。やっていける。そう思った。
END