一
ただびょうびょうと、風。
崩れ果てた都市にかつての栄耀の面影はない。
そのはずれから先はもう、ただ茫漠とした荒野。風と、ひと月ごとに訪れるキャラバン隊との他には、渡るものとて見られない。
孤立した都市のなか、摩天楼の残骸のその隙間に貼り付くように、人々は生きていた。
* * *
ざくり、と靴音。
荒野に踏み出したのは、一人の少年。
青紫の目。銀灰の髪。汚れたカーキ色の作業着。背には古い雑のう。
そしてその手には、身の丈ほどの木の棒。
それを握りしめ、少年はただ、待つ。
見渡す限り、灰色の天。灰色の地。少年も、その中に溶けていた。
と、はるか彼方に、一点の黒。
「来た」。
少年は棒を握りなおし、それを待つ。
しだいに近づいてくるそれは、鈍く、しかし鮮やかに、荒野に映る。
ようよう少年の目の前に立った「それ」は、一人の男の姿をしていた。
黒の目。黒の髪。黒の服。
その唇の端が釣り上がり、開かれる。
「いよう、銀の字。久しいな」
その言葉に、少年もにやりと笑ってみせる。
「銀の字。臭うな、おのれは。今日どれだけ仕留めた」
男の問いに、少年は指を四本挙げる。
それを見て男は顔をしかめ、しばらくじっと相手を睨む。
「……四ッたりか。やってくれる。のう、銀ノ目よい?」
やがて口を開いた男は、初めて少年の名を呼んだ。
「道理で『戻り』が早い」
少年……銀ノ目は、相手の体に目をやった。
黒一色と思えた相手の体はかすかに透けて、灰色の地平がその胴を横切っている。
「明後日だ」
にいっと笑い、男は、ぴたりと銀ノ目を見据えて言った。
「明後日こそ、おのれを喰ろうてやる」
銀ノ目は、不敵な笑みでそれに答えてみせた。
二
かつての都市の一角。
貧民街の表通りから外れた摩天楼の隙間、薄暗い路地裏に、その店はあった。小さな花火屋だった。
「おお、よう来た」
雑のうひとつ背負って戸口の椅子に腰を下ろした銀ノ目に、店の老婆は水の入った柄杓を差し出した。
「ほれ、あすこ、あすこよ。あの窓じゃ」
水を飲み干し、老婆の指さす彼方に目をやる。
崩れた建物の中ほどの窓のひとつに、すっと小さな影が飛び込むのが見えた。
「見たか?」
銀ノ目はうなずき、立ち上がろうとした。
と、その背後から、もうひとつの声。
「あの窓か」
銀ノ目は振り返り……老婆の背後に、あの黒い男を見た。
「……三日前からあすこに巣を作りよった。ときどきうちに飛んできては、食い物を狙いよる。……おい、何ぞしたか?」
老婆は話し続けていたが、銀ノ目の様子に気づくと、その視線を追って振り返った。
男はまだそこにいたが、老婆は首をかしげて銀ノ目のほうを向く。
「何も居りゃせんぞ。妙な子じゃの」
銀ノ目は、何でもない、と老婆に手を振ってみせる。
あの男は他の者には見えもしない。聞こえもしない。銀ノ目は、とうの昔にそれを心得ていた。
老婆に柄杓を返し、彼は立ち上がった。
* * *
その建物は斜めにかしぎ、入り口は半ば埋もれていた。
やせた体をもぐりこませるように、銀ノ目は中に這入った。
中はひいやりとして暗く、湿ったにおいがする。
小さな電気ランプをつけると、彼は崩れた壁や柱の間を慎重にくぐっていった。
使えそうな階段や足場を見つけては、慣れた動きでするするとよじ登る。
次の階にたどり着くと、またがれきをくぐり抜け、上への道を探す。
こうしてさまよう間にも、彼は自分の背後についてくる黒い男の気配を絶えず感じていた。
幾層か登り、あたりをつけた階にたどり着くと、今にも割れそうな床の上をじりじりと進んでいく。
この辺りだ。壁にはり付き、そろそろと辺りを見回す。
ふと、かすかな羽音。目を走らせると、天井の梁からはみ出した、針金のかたまり。
そして、そこからばさばさと見え隠れする、両の翼。
それは、あの男と同じ、鈍い漆黒をしている。
見つけた。
烏だ。
銀ノ目は、烏に見えないところまでそろそろと下がった。
床にそっと雑のうを置いて静かに手を入れ、金属の容器と短い棒を取り出す。
音を立てぬように容器の金具を外して蓋を開け、短い棒を中に突っ込む。
棒を取り出すと、先端には何かべとべとした物が付いていた。
「鳥もちか」
男の言葉に、銀ノ目はうなずく。
烏に聞こえる心配はしない。烏にも、男の姿は見えないし、男の言葉は聞こえない。「生きている」烏になら。
もう一本、折りたたまれた棒を取り出し、伸ばして手早く組み立てる。それは、あの長い棒だった。
短い棒をその先端にとりつけ、銀ノ目は壁に沿って烏に近づく。
男はその場に立ち、じっと彼を凝視していた。
烏が気づいた。けたたましい鳴き声を上げ、銀ノ目めがけて一直線に突っ込む。
銀ノ目は素早く棒を引き、ばっと烏を打ち据えた。
打ち落とされた烏はしかし、再び鋭く舞い上がる。
途端、烏を巻き込むように棒がうねり、先端が一気に烏を突いた。
鳥もちにからまり、烏がもがく。
烏が逃げられないのを確かめ、銀ノ目はゆっくりと棒を置いた。
動けない烏に近寄り、しゃがみ込んで胴体と頭を持ち、慣れた手つきで首をひとひねりする。
かすかな音がし、その場はそれきりしん、となった。
動かなくなった烏を鳥もちから外してその場に置くと、彼は烏の巣に近づいていった。
烏はもういないようで、巣の周りには何の気配もない。
壁の割れ目に足をかけ、身軽に巣の高さまで登る。
巣を覗き込むと、中には卵が三つ。
左手で体を支えたまま右手でひょいとそれをつかむと、彼は床に飛び降りた。
「……親一羽、と、卵、三つ」
歌うように、男がつぶやく。
* * *
「おうおう、ご苦労さん」
銀ノ目が戻ると、老婆は手を打って迎えた。
「どうじゃった」
銀ノ目は、腰に吊るした烏と、ボロ布を入れた容器の中の卵を見せた。
「ほ、卵があったか……」
つぶやきながら、老婆は服のポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、銀ノ目の手に握らせた。
彼は紙幣を数えてポケットに押し込むと、老婆に手を振って、店を出ようとした。
「待て。ほれ、持ってけ」
老婆は店の隅から花火の小袋を取り上げ、銀ノ目に持たせた。
「かまわん。どうせ今年の祭りは終わった、客なんぞおらんよ」
老婆は、歯のない口でほっほっと笑った。
* * *
花火屋を出ると、男の姿はどこにもなかった。
光の射さない路地を抜け、貧民街へ入る。
雑踏、喧騒、ごちゃまぜのにおい。
人間やら音やら何やらの中を泳ぐように渡り、一軒の露店の前にたどり着く。
そこにはずらりと、何かの肉、そして卵。
かたわらの大かごには、白や黒やまだらの羽が山をなしている。
銀ノ目は、腰に吊るした烏と容器の中の卵を、店の主人の前にかざしてみせた。
「お、また来たか。やるねえ」
主人は烏と卵を受け取り、銀ノ目に幾枚かの紙幣を渡した。
そして器用に烏の羽をむしり取ると、脚を一本切り落として包み、これも渡した。
それを雑のうに放り込み、銀ノ目は軽く手を振って露店を後にした。
人に頼まれて烏を獲り、それを売ってまた金にする。
烏獲り。銀ノ目はそうやって生きている。
三
貧民街の片すみの、廃墟の中。銀ノ目はここをねぐらにしていた。
傾きかけた西日の中、彼は火を起こし、烏の脚をあぶった。
他には、貧民街で買った少しの料理と水。それが夕食だった。
容器を開ける。野菜の煮込みの匂い。スプーンでひとすくい、ほおばる。
烏の脚がじりじりと音を立て始めた。火の横から取り上げる。
と、声。
「親一羽、と、卵三つ、と、花火」
顔を上げると、あの男がいた。
ぐっと水を飲み、銀ノ目は横にどいて男の場所を空けてやる。
男はそこに座り込み、軽くからかうように言った。
「銀の字。また少し『戻っ』てきたぞ、おのれのお陰でな」
見ると、男の体は、先ほどよりわずかにはっきりとし、透けなくなってきている。
「だがわしは、今はまだおのれに何もできん。口惜しいが、な」
言うと、男は銀ノ目に、ぶん、と腕を振り下ろした。
その腕はただ、銀ノ目の体を通り抜けるばかり。
銀ノ目は驚きもせず、烏の脚をほおばった。
「烏、か」
水を飲みながら、彼はうなずく。
「銀の字よい。わしは……『わしら』は、おのれが憎い」
炎に目をやり、男が無造作に言う。
「憎いが……憎んではおらん。おのれの行いを罪とは思わん。人は烏を捕らえ、喰ろうて生きる。烏は人から奪い、また人を喰ろうて生きる。当然の生業よ」
炎に目をやり、銀ノ目はただ、烏の肉に歯を立てる。
「なればこそ、おのれを殺す。おのれを喰ろうて生きる」
男は立ち上がった。
「明後日だ。明後日、必ず」
夕日を背に受け、男は黒々と、闇そのものに見えた。
その身のただ中に一点、血のような陽の、紅。
そして、男はそのまま姿を消した。
四
次の日、銀ノ目があの花火屋の前を通りかかったのは、偶然だった。
腰に烏を何羽か吊るしたまま、何気なく中を覗く。……覗いて。
立ちすくむ。
床に倒れて動きもしない老婆。
それをつつく、何羽もの烏。
「心ノ臓の病いよ。『わしら』が来た時にはもう、死んでおった」
はっと振り返ると、あの男。もはや、ほとんど透けてはいない。
ぎゃあぎゃあと、辺りはばからぬ烏の声。無数の羽音。
銀ノ目は黙々と棒を組み立てると、ばっと烏を打ち据える。
倒された一羽にとどめをさし、いつものように腰に吊るす。
他の烏は外へ逃げた。遠巻きにこちらをうかがっている。
「銀の字よい。『わしら』が憎いか?」
銀ノ目は、うなずき……首を横に振り……首をかしげた。
(人は烏を捕らえ、喰らって生きる。烏は人から奪い、また人を喰らって生きる)
誰よりよく心得ている。……心得ている。
銀ノ目は外へ出、何も入れぬよう、店の戸を閉めた。
烏たちは、彼の棒の届かぬところから、じっとそれを見ていた。
五
次の日の、夕刻。
ざくり、と靴音。
荒野に踏み出したのは、銀ノ目。
その手には、身の丈ほどの木の棒。
それを握りしめ、彼はただ、待つ。
見渡す限り、紅の天。あかがねの地。彼の姿は、荒れた大地にくっきりと影を落とす。
と、はるか彼方に、一点の黒。
来た。
銀ノ目は棒を握りなおし、それを待つ。
しだいに近づいてくるそれは、黒々と荒野に映る。
ようよう彼の目の前に立った「それ」は、あの男だった。
その唇の端が釣り上がり、開かれる。
「いよう、銀の字」
その言葉に、銀ノ目もにやりと笑ってみせる。
「銀の字。今日どれだけ仕留めた」
男の問いに、銀ノ目は指を三本挙げる。
「なるほど。お陰で……」
その指を見て、男がゆっくりと言う。
「『戻った』ぞ」
見ると、男の姿はもはや、透けてはいない。
それは夕陽をさえぎり、ただ、闇のように。
だん、と男が走った。そのまま疾風のように突っ込んでくる。
銀ノ目はとっさに棒を振った。男はそれをかいくぐり、顔を狙って大きく腕を振った。
飛びのいた銀ノ目の頬を、男の爪がかすめる。軽い衝撃、頬が切れた。
やはりこの男、「戻っ」ている。今なら、銀ノ目を殺せるだろう。
走って距離を開け、棒を握りなおす。
二撃目。ぎりぎりまで引きつけ、力任せに打ち払う。
――そして、今なら銀ノ目も、男を殺せる。
手応え。舌打ちし、男が飛びすさる。
構えたまま、二人はにらみ合う。
銀ノ目が仕掛けた。鋭い打撃を男に浴びせる。
が、瞬間、男は地を蹴り、一気に銀ノ目の間合いに入った。
防ぎが間に合わず、思い切り胸を突かれ、銀ノ目は吹っ飛ばされてひっくり返った。
振り下ろされる男の腕を、転がって必死でかわす。
と、視界の隅に、都市のはずれの廃墟。
銀ノ目は棒を引っつかむと、それを目がけて全速力で走った。
「遣るまいぞっ、銀ノ目!」
黒い嵐のように、男が追う。
廃墟の手前で何かにつまずき、銀ノ目はもんどりうって転がった。
そこに置いておいた雑のうだった。蹴飛ばされ、中の物が勢いよく散らばる。
すかさず、男の腕が振り下ろされる。すれすれで逃れ、銀ノ目は廃墟に飛び込んだ。
男は舌打ちした。暗闇では目が利かない。
と、足元に、銀ノ目の電気ランプ。
男はとっさにそれを掴み、廃墟の闇に向けてスイッチを押した。
それは白くきらめいて、一瞬で暗闇を打ち払い――
照らし出された銀ノ目の、その両目が、まるで獣のそれのようにぎらりと光った。
それは烏としての、野獣というものに対する根源的な恐怖だったかもしれない。
男が一瞬、凍ったように立ちすくんだ。
瞬間、銀ノ目が疾った。一気に間合いに飛び込み、
ばん、と男を打ち据えた。
男は、まるで烏のような絶叫を上げ、
そのまま、溶けるように、姿を消した。
銀ノ目は、その場に座り込んだ。
夕陽は、血のように紅く。
六
荒野はただ、闇。
弱々しい星明りが、わずかに地上を照らす。
銀ノ目はようやく立ち上がり、散らばった物を拾ってはのろのろと雑のうに戻していった。
今回も、どうにか生き延びた。
彼の両目。なぜかは知らないが、暗闇で灯りが当たると、猫かなにかの目のように、ちかりと光るのだ。
誰が言い出したのだったか、「銀ノ目」の呼び名の由縁となったのが、これだった。
だが、銀ノ目が烏を獲る限り、あの男は何度でも戻ってくるだろう。
(人は烏を捕らえ、喰らって生きる。烏は人から奪い、また人を喰らって生きる)
銀ノ目も「彼ら」も、そうやって生きている。
落ちていた最後の物を拾い……ふっと、手が止まった。
袋入りの花火。おととい、あの老婆が持たせてくれたものだった。
その時ふと、それに火を点けてみる気になった。
なぜかは知らない。
が、銀ノ目は花火を一本取り出し、火を点けた。
しゅううう、とかすかな音をたて、夜の闇を切り裂いて一条の炎が流れる。
それは赤に緑に色を変えては、鮮やかに荒野に浮き上がる。
どうしてか、あの老婆の顔が浮かんできた。そして烏たち、あの男。
その感情を何と呼んでいいか、彼にはわからなかった。
ただ、それに突き動かされるように、銀ノ目は次々に花火に火を点けた。
それらは花のように、星のように、きらめいて夜にはじけ、瞬いて、散っていく。
遥か遠くで、うねるように、風。
(完)