WORKS>ティリの糸



 席替えで隣になった女子がよりによってティリだ。
 あからさまに嫌な顔をしてやったが、向こうは顔も上げない。もともと根暗な奴だし関わってやる義理もないが、スルーされたらされたで腹が立つ。わざと近くに鉛筆を落とし、かがんで取るついでにペンケースを払い落としてやった。
 昼休みに友人に愚痴ったら、お前もついてないなと苦笑いされた。クラスの半分が女子なのに、いい貧乏くじだ。

 ティリは難民二世だ。親の代に定住したらしい。国の決まりで、定住難民の子女は僕らと同じく、無償で学校に通えることになっている。戦争が済んだら国に帰ればいいのに、とは僕の周囲の大人の口癖で、僕もおおむねそれに賛成だ。隣の保護区の先住民とはえらい違いである。
 同化政策の一環で、もともとは先住民の子供たちもこの学校にいたそうだ。が、文化が途切れるのを理由に先住民側から反対運動が起こり、僕らのすぐ上の世代から彼らは街の学校に来ていない。それでいいんじゃないだろうか。

 * * *

 この席になって三週間ばかり経つが、僕は一度もティリと口を利いていない。そもそも、こいつが他の誰かとしゃべってるのかすら怪しいけれど。
 そのかわり、目だけは向けておいた。そしてつい先週、気付いた。

 ティリのペンケースに、少しずつ色が増えているのだ。

 席替えの日、こいつのペンケースを僕は見ていた。生成りの帆布で、メーカーの小さなロゴ以外ほとんど無地に近かったはずだ。
 それが、端のほうから少しずつ柄が入っている。よく見ると、花柄の刺繍だ。つる状のデザインの茎に沿って何輪もの花が少しずつ色を変えながらちりばめられている。紫の花はいんげん、白い花はジャガイモ、黄色い花はきゅうりかカボチャだろうか。ついこの間、理科で習ったばかりだ。
 糸は細く、見るからに緻密な作業だ。毎日少しずつしか増えないから、隣の僕もすぐには気付かなかったのだ。
 そのことに気付いてから一週間、僕はペンケースを観察し続けた。日一日、刺繍はまるで本物の花のようにその上を伸び、花もますます繊細に、あでやかに咲き誇っている。
 そのきれいさが何故か僕をいらだたせた。秘密を知りたくなった僕は、休み時間にティリの後をつけてみた。
 校舎別棟の裏手、人も来ないフェンス際の壊れた椅子に座り込んで、ティリが刺繍針を動かしていた。決して早くはないと見えた指の動きは細かく、針から続く糸が魔法のように花へ変わっていく。
 こいつらの国の伝統産業が刺繍だったと、そういえば社会科で習った気がする。

 腹が立った。こいつはティリの癖に、僕らに秘密を持っていたのだ。

 僕は大股で近づいて、針のついたままのペンケースを物も言わずにもぎ取った。ティリが小さく悲鳴を上げたが、無視して教室に戻った。
 そのままゴミ箱に捨ててしまおうかとも思ったが、見つけられても癪だ。丸めてカバンに入れ、家に帰って部屋の棚の奥に放り込んだ。
 後ろめたさが心中でささくれになったが、凶暴な安堵感がそれを飲み込んだ。これで一件落着である。何がかは自分でも分からないが、とりあえず落着だ。

 * * *

 が、次の日、心安らかに登校した僕は隣の席を見て目をむいた。
 ティリがひょいとカバンから出した弁当袋に、小さく花の刺繍がついていたのだ。
 昼休み、ティリは姿をくらました。慌てて昨日の場所に向かったが、誰の姿もなかった。そして休み明け直前に戻ってきたこいつの弁当袋の花は、嫌な予感どおり、朝見たときより確かに先へと伸びていた。




 日ごと増していく暑さと合わせるように、ティリの弁当袋の刺繍の草花は生い茂っていく。
 予想した通り、この間の事件が表ざたになることはなかった。が、こいつも学習したようで、前はカバンに入れていた弁当袋をロッカーにしまうようになった。ロッカーは四ケタのダイヤル錠式だから、僕にも手が出せない。
 そして昼休みになるとどこかへ消えていく。極力目で追うようにはしていたが、ちょっとした隙をついて姿をくらます。僕も弁当は友達と食べるから、付き合う暇はないと言えばないのだけど。
 だから僕は、こいつをほうっておくことにした。

 半月も経ったある日、始業ぎりぎりに戻ってきたティリの手の弁当袋はすっかり刺繍で覆われていた。ちょっとした箱庭さながらだ。
 ティリが弁当袋を机に置いたのに合わせ、友人がその横に教科書を落とした。ティリが反射的にそちらを向いた隙に、僕は逆サイドの自席から弁当袋をさらって机に押し込んだ。
 向き直って事態に気付いたらしいティリがおろおろと机周りを探し始めた時、ジャストタイミングで先生が入ってきた。
 ティリが生意気にもこちらを睨んでいる気配があったが、無視した。食ってかかったり告げ口したりする勇気はこいつには無いはずだ。そして実際、僕の読みは正しかった。

 * * *

 しばらくは何事もなく過ぎた。部屋の棚の奥に眠る刺繍をたまに思い出すことはあったが、勝利の味と微かな罪悪感も日々のあれこれにすぐ押し流された。
 そうやって夏が過ぎ、秋も深まった頃、ついにティリがどじを踏んだ。

 火曜の朝、前日を忌引きで休んでいたティリは黒いスカート、黒いセーターで登校してきた。ただでさえ根暗なこいつにそんななりをされるのは重たく、週明けから気がめいった。
 一時間目が終わり、移動教室のために席を立ったティリがなんとなく目の端に入った。
 その視界で、なぜか色が動いた。ふとそれを目で追う。ティリの黒いセーターの裾から、ブラウスの裾が見えている。

 その縁に、色鮮やかな糸が走っていた。

 目眩がするような怒り。抜いても抜いても生えてくる雑草を、なぜか僕は幻影で見た。
 こいつは僕の目を欺いて、刺繍を持ち続けていたのだ。二度も取り上げて安心しきっていた僕を陰で笑いながら。
 放課後、初めてティリに声をかけた。準備室の教材を出すから手伝え。ティリは何も言わなかったが大人しくついてきた。
 僕に続いて準備室に足を踏み入れたティリの背後で乱暴にドアがしまった。ティリが息を呑む気配。待ち受けていた友人二人が左右からその腕を押さえ、机に引き倒す。硬直していたティリが初めて暴れた。別の友人たちがその口をふさぎ、肩を抑える。
 僕はティリのセーターを乱暴に引き上げた。白地のブラウスのふちを、大きな花柄でぐるりとかがられている。同じくセーターにかくれていた袖口と、襟周りも。
 おい、ほんとにやるのか。友人が不安げな目で僕に言っている。僕は無言でハサミを出し、刺繍に当てた。だが、ただ握ればいいだけの指に力が入らない。
 押さえられた手の下でティリが何か叫んでいる。その顔は紙のように真っ白だ。身動き取れないその姿は、鮮やかな服もあいまって、押しピンで止められた蝶を連想させた。
 いや、こいつに蝶なんて喩えはもったいない。僕はハサミに力を入れた。

 背後からドアの音、雷のような声が降ってきたのはその時だ。はじかれたように顔を上げた僕らを、鬼と呼ばれる男性教師が仁王立ちで見下ろしている。
 と、凍りつく僕らを跳ね除けて、ティリが走った。教師の脇を抜け、野うさぎのように教室を飛び出していく後姿を、僕は呆然と見送った。

 * * *

 それきり、ティリは学校に来なくなった。僕らは大目玉を喰らい(ついでにシチュエーションからあらぬ誤解もされ)、危うく進退に関わる問題になるところだった。
 が、肝心の被害者が姿を見せなかったため、事態はうやむやになった。聞けば、ティリの家に何度出向いても、本人はおろか家族すら、いる気配もなかったという。一家の出自も関わって、気がつけばそのまま日常が戻ってきた。

 あの時僕らが切ろうとしたティリのブラウスは、前日に亡くなった彼女の祖母が布地から探して仕立て、刺繍まで入れてくれたものなのだと、後で聞いた。




 一年ばかりして、図書館でティリに会った。
 会ったというよりは、たまたま行き会ったのだ。棚を物色していた僕のすぐ近くにひょいと伸びて本を抜き取っていった華奢な手、その袖口が、小さな刺繍で囲ってあった。
 去年の不愉快な出来事が思い出され、反射的に相手の顔を見た僕は、確かに一瞬息が止まったと思う。そのまま腑抜けのように立ち尽くす僕に気付いたか、相手も僕を見……同じように凍りついた。
 間違いなくあの事件の当事者……ティリだ。身に着けた刺繍は言うに及ばず、左右に垂れたゆるい三つ編み、僕らより一回り小柄な体、怯えて固まった表情までそのまま。
 が、次の瞬間、ティリがきっと僕を睨んだ。
 思わぬ反撃に目を泳がせた僕の眼前で、ティリはくるりときびすを返して歩み去った。背中にゆれる大きな肩掛けカバン。

 その上蓋の一面をあふれんばかりに埋め、糸が踊っていた。

 ティリの国の草花模様、だけではない。よくは知らないが、中央の動物達の形は先住民たちのモチーフではなかったか。そして蓋から垂れるふち飾りのビーズ、あれは先住民保護区のさらに奥、森に住んでいる女たちの工芸品だ。
 瞬間、かつてと似た怒りがこみ上げた。こいつは何も変わっていない。いや、前より悪いんじゃないか。街から保護区や森に行ってはいけないと、学校や周囲が口をすっぱくして言っているのに。周りに言えば、あいつをお終いにできるんじゃないのか。ついでに、あいつと繋がっている誰かも。
 いや、と別の思いが僕を制した。
 あちらへ行くことには法的な規制はない。単に、よく分からないからやめておけという事に過ぎず、うまくやっていけるなら別にいいのだろう。
 通報しても誰も動きはしまい。だいいちティリはもう、学校にはいないのだ。

 つまり、お前は悔しかったんじゃないのか。下だと思っていた相手が自分より優れていたから。

 陳腐すぎる、あまりに古典的すぎる心の声を、あの頃と同じように僕は必死で打ち消そうとした。が、無駄な努力なのはもうわかっていた。僕は見せ付けられてしまっていたのだ、二度取り上げられても決して刺繍を捨てなかったティリを。

 で、お前には何があるんだい。あいつが持ち続けたようなものが、何かあるのか。

 心の声が続けた。
 こちらは初めての中身だったので、僕はたじろいだ。僕はたぶん、このままハイスクールに入って、大学を出て、その先は……
 分からなかった。要は、何も無かった。
 そして、さっきティリのカバンを見て沸き起こった怒りの、本当の正体を知った。ティリは僕よりも下になどいなかった。が、僕より上に行ったのではない。
 僕らの安住している位置からひょいと出て、まるで違うところへ行ってしまったのだ。僕らが見ようとせず、したがって思いもよらないような、広大で豊かな場所へ。
 僕は、それがとてつもなくうらやましかったのだ。

 書庫の出口のあたりで、ティリと行き逢う人影があった。一人は大人の男だ。顔つきから保護区出身者と知れる。もう一人は女。彼女や僕より少し上だ。街の人間のいでたちをしていたが、持っている携帯のストラップからビーズ飾りが垂れていた。あいつらが、ティリにあの細工を教えたんだろうか。
 三人はそのまま廊下へ消えた。図書館だからか話す様子は無かったが、親しげに見えた。それでもなおしばらく、僕はその場から動けなかった。


(完)


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