かつて、ある国を旅したことがある。
そこでは、家の壁や戸口などに魔よけの模様を描く習慣があり、私が行ったときも、家々の壁という壁、塀という塀は色とりどりの模様でうずめられていたものだった。
その模様を描くための道具は、現地の言葉で「システィカ」だか「ジスティカ」だかいう名前だったが、物としては単純なもので、ロウ成分に色素を混ぜ込んだもの……つまり、クレヨンと同じだった。
紙は巻いていなかったが、手につくこともなく、なんと言ってもその深く美しい色合いが魅力だった。
あちこちの言葉で「クレヨン」と翻訳されており、私のところの言葉でもそうなっている。
だが実のところ、これは大いなる誤訳なのだ。
* * *
私が行ったとき、その国では大きな祭りの前で、人々はシスティカ……例の「クレヨン」を手に、家や他の建物の模様の塗り替えに励んでいた。
小さな家といっても、壁の大きさは当然、画用紙の比ではないので、「クレヨン」をすり減らした人目当てのクレヨン売りの姿も、あちこちで見られた。
彼らを見分けるのはたやすかった。色ごとに分けたクレヨンを入れた小さなカゴを、いくつもぶら下げていたのだから。
バラのような真紅。深海のような群青。森の深緑。からすの黒。象牙のアイボリーに桜貝の桃色。
目がさめるような、あるいは夢のような、色の乱舞そのものだった。
そして、それらのクレヨン売りは、なぜかみな黒いサングラスをかけていた。
クレヨン売りのひとりに、何気なくクレヨンの値段を聞いてみた。
一本、3ドル(驚いたことに、この国では普通にドルが通用する)。えらく高い。
「だがね旦那、こいつは、よその国の人には売れないんですよ」
申し訳なさそうにその男は言った。
なぜだい。私は聞いた。だが彼は、それは勘弁してください、と言ったきり黙りこんでしまった。
訳を知りたくなり、私は彼に食い下がった。
長い押し問答の末、彼はついに折れた。
「……旦那、ほんとにいいんですね?」
その瞬間、得体の知れぬものがぞくりと背すじをよぎったが、私はいい、と答えた。
彼が私を連れて行ったのは、街はずれの工房だった。彼はここでクレヨンを作っては売り歩いていると言う。
どうぞ、と促され、一歩足を踏み入れた。
カビと湿気のにおい、そして……
「……血のにおい?」
「ええ」
言うなり、男は棒で私の頭を一撃した。
もうろうとする意識の中で、誰かがしゃべっている。
……旦那には申し訳ないんですがね……わたしはこれで生活してるんですよ……
……まじないには、いけにえが要る……これを入れるおかげで、色がぐっと良くなるんです……
私はぼんやりと考える。「いけにえ」? 「これ」?
……だけどやっぱり、この商売は祟られるんですよ……
男がサングラスを外す気配。初めて見る相手の目に、フォーカスが合う。
男の眼球は、白目のない、全くの黒一色の球体だった。
* * *
私は今、色となって、家々の壁にいる。
システィカは、クレヨン……子供のおもちゃなどではない。
人間の体をいけにえとして混ぜ込んだ、魔よけの道具。
私の体もばらばらになり、それぞれの色に混ぜられ、模様に描かれ、家々を守っている。
秘密を知ったよそ者は、システィカのいけにえとなる。
システィカ売りたちは、いけにえの、色の祟りをうけ、あらゆる色の混ざった「黒」の眼球となる。
そして街の人々は、システィカの代金とともに、祟りをうけたシスティカ売りへの施しをする。
システィカは魔の道具。祈りの道具。いけにえの、システィカ売りの、人々の祈りをしょって。
血のような真紅。静脈のような群青。胆汁の深緑。髪の黒。骨のアイボリーに心臓の桃色……
END