彼は郵便局で働いていた。
郵便配達係ではない。郵便局に集められ、宛て先の地区ごとに区分けされた手紙を、さらに家ごとに分けていく仕事だった。
その中に、彼宛ての手紙は一通もない。
担当の地区は彼の住む地区ではないのだから、当然といえば当然だった。
しかし、彼には身内もいなかったし、その上無口で少々気むずかしく、何をするにも一人で動くような人間だった。
そういうわけで、彼がもう何年も人から手紙をもらっていないのは、不思議なことではなかったのだ。
毎日毎日黙りこくって棚に向かい、自分宛てではない手紙を分ける。
色とりどりの手紙たちは、みな彼の前を素通りし、彼以外の誰かのところへたどり着く。
それに少しのいらだちと、もっと少しの寂しさを覚えたのも最初のうちだけで、今はもう、彼はただ淡々と仕事をこなしていた。
* * *
ある暑い日、彼の分ける手紙の中に、別な地区のハガキが紛れていた。
――誰か、間違えたな。
あとでそこの地区の担当に渡すつもりでそれを脇へのけながら、ふとその宛て先に目をやった彼は、思わず息を呑んだ。
その住所も、宛名も、紛れもない彼自身のものだったのだ。
あわてて、彼は差出人欄に目を走らせた。
女性の名前。見覚えがあった。
――そういえば。
高校のころ、一度だけ隣の席になったのだった。
何を話したのか、もう忘れてしまったけれど。
その後、クラス替えがあって、それっきりだった。
裏返してみる。淡いひまわりの絵。ここの郵便局でも売っている、官製ハガキだった。
『暑中お見舞い申し上げます……』
流れるようなペンの文字。
『お近くにお住まいと分かり、懐かしくなってペンを執りました……』
ハガキをもう一度ひっくり返し、住所を見てみる。そこで、彼は二度驚いた。
その住所は、彼の担当する地区だったのだ。
すぐに、目の前の棚に目を走らせる。三丁目4-12……三丁目4-12……
あった。
その棚の名前は、間違いなく彼女のものだった。
ここから――この家から、手紙が来たのだ。
いや、正確には「来る」のだ。恐らくは、明日。
――俺に手紙が来るんだぞお!
誰かに――誰もに聞かせてやりたかった。
でも、彼はその代わりに、さりげなく――実にさりげなく、その手紙を係の人間に渡した。
郵便局員は郵便のプライバシーを漏らしてはならない、という決まりもあったが、何より、気恥ずかしかったのだ。
その晩、彼はいつものようにスーパーで缶ビールと、300円のピーナッツを手に取り――少し考えて、350円のミックスナッツを買った。
* * *
次の日、彼は急ぎ足で家に帰った。
郵便受けを覗く。と、果して、あのハガキはひっそりとそこにあった。
何か壊れやすいものでも触るように、彼は息を殺して、それを取り出した。
宛名には紛れもない彼のそれが、差出人には紛れもない彼女のそれが、昨日と寸分たがわぬ筆跡で、寸分たがわぬ位置にあった。
そして、あの流麗な文字。
彼は、それを壁の目立つところに貼り、その日、何度も何度もそれを見返した。
その次の日。
彼は朝一番に、郵便局の一階の、切手・ハガキ売場に行った。
見本の中に、あのひまわりの絵。
彼は、それらの見本をためつすがめつして、ようやく金魚の絵のついたハガキを一枚、買った。
昼休み、彼は食堂の隅のテーブルでそのハガキを書いた。
『暑中お見舞いありがとうございました……』
彼はそれを局のポストには入れず、帰り道、家の近くのポストに入れた。
* * *
そして、その次の日。
彼は、自分の区分けする手紙の中に、自分の書いたあのハガキを見つける。
――お、来た、来た。
彼はそれを手に取り、ひと呼吸し、ゆっくりと宛て先の――彼女の棚に入れる。
END