彼は学者だった。
年は若いが、大きな眼鏡をかけ、くたびれた上着を着て、背を丸めて歩いていた。
周囲は変人と噂したが、彼もまた世界が好きではなかったので、別に問題はなかった。
そして、彼は無類の本好きだった。
本の一ページ一ページにぎっしりと並んだ文字を、ページを繰るごとに立ちあらわれる無数の情報を目の当たりにするたびに、彼は限りない幸福を覚えるのだった。
食事をする時も、買い物に行くときも、彼のかたわらには常に何冊もの本があった。
それらの本は時とともに増え続け、彼の家を満たしていった。
それとともに、彼の本好きはますます強くなり、いつしか彼は、本にうずもれながら一日じゅう本を読みふけるようになったのだった。
昼も夜も食事も忘れ、外に出ることもなく、本の海の底で彼は膨大な情報にひたり続けた。
どれほどの時間が経ったろうか。
――楽しいか?
ふと声が聞こえた気がして、彼はゆっくりと顔を上げた。
本の山の上に、一羽の大きなカラスがとまっていた。
それはくちばしを開き、しわがれた声でもう一度言った。
――楽しいか?
「お前は、誰だ」
彼は、かすれた声でカラスに問うた。
――俺か。……俺は、本だよ。
「本? 何を言うんだ、だってお前は……」
それに答えず、カラスはばさりと翼を広げた。
彼は凍りついた。
眼前に広がるカラスの翼。そこにはただ、どんな情報も読み取れぬくろぐろとした虚無が在った。
それがはためいた刹那、彼はそこにこの世の色という色を見た。
と、カラスはゆっくり飛び立った。
「ま、待ってくれ」
彼はあわててそのあとを追った。
彼がこれまで目にしたどの本にもなかったその闇を、もう一度この目で確かめかった。
だがカラスはたちまち視界から消え去り、彼はその残像を探して家じゅうを歩き回った。
と、視界に外へ続くドア。外からの光が、鍵穴の形にくっきり浮き上がっている。
彼は、ほとんど無意識にドアを開けた。
強い陽光。一瞬、彼は目を閉じた。
ゆっくりと目を開け……彼は、ぼうぜんと立ちすくんだ。
無数の色があふれていた。
抜けるような空の青。鮮やかな家々の赤や黄色。したたるような街路樹の緑……
突如、彼の中で、稲妻のように何かが閃いた。
「……そうか」
彼は、思わずつぶやいた。
真理が、彼の本からは決して得られなかった真理が、叫びとなってその口から出た。
「わかったぞ。世界は本だ。……そうだ、世界は本なんだ!」
腹の底からこみ上げる笑いを抑えようともしないまま、彼は街路を走り出した。
「世界は本だ、本なんだ!」
叫びながら、彼は通りを駆けに駆けた。
蝶の羽に極彩色の妖しさを、石壁に年経た沈黙を、雲の陰影に恐ろしいほどの輝きを、彼は見出した。
道ゆく人はみな振り返ったが、彼は気にもとめなかった。
やがて走りつかれ、公園の芝に倒れ伏しても、彼はなお笑い続けた。
周囲は気ちがいと噂したが、彼は世界が好きになったので、別に問題はなかった。
END