「ね、見て。きれいねえ」
堤防の手すりから身を乗り出さんばかりにはしゃぐ彼女に、私は苦笑まじりに言った。
「落ちるなよ。泳ぎは苦手だから助けてやれないぞ」
「落ちないわよ。なーに、おじさんみたいなこと言って」
「また、そういう事を」
笑いながら、私は沖合いに目をそらした。
もう33歳なのだから、おじさんみたい、なのではなく、実際におじさんなのだ。
もっとも、そういう彼女だって29歳なのだが。
妙に寂寥めいた気分とはうらはらに、海はどこまでも明るい。
「ほんとにきれい。来て良かったわ」
「そうだね。こりゃ幸先がいいかもな」
白羽海岸、と書いて、しろはねかいがん、と読むのだそうだ。
ガイドブックでこの名前を見つけた彼女は、即座に週末のデートの行き先をここに決めた。
――ロマンチックじゃない、白い羽だなんて。
この白羽海岸は遠浅の穏やかな海で、晴れた日の眺めは絶景だという。
あまりあてにならない本だったが、今度ばかりは当たりだった。
職場で知り合った彼女との交際はもう3年も続いているが、この歳まで独身で来たせいか、私は長らく「結婚」というものに踏ん切れないでいた。
それをようやく一大決心したのは半年前で、準備は順調だ。
それでも本当のところ、微かなためらいはまだ続いている。
だが今日の海は、私のそんな気持ちを明るくするには充分すぎるほどだった。
「わたし、堤防の端っこまで歩いてみるわ」
「そう? じゃあ、僕はあの店でお茶でも飲んでるよ」
ひらひらと手を振りながら歩いていく彼女に手を振り返し、私は道のそばの店に入った。
どちらかといえば海の家のような古い店だったが、中からは海がよく見えた。
「しかし変わったひびきですね、『白羽』で『しろはね』だなんて」
お茶を持ってきた老人に、何気なく私は話し掛けた。
「ええ。……まあ、色々ありましてね」
老人の、変に濁したような言葉が引っかかった。
「色々?」
「ええ……お客さんにこんな事話していいのか、分かりませんけどねえ」
「え?」
妙な居心地の悪さを感じながら、それでも私は聞き返した。
「昔、戦争前ですけど、ここらで夜中、大きな地震がありましてね」
「はあ」
「津波ですわ、津波。みんな家で寝てたとこに、ごおっと来たんですよ。……ひとたまりもありゃしませんでした。家も人も、みんな流されちまって。そりゃいっぱい死にましたよ。あの海の沖の方にね、随分たくさん浮かんでました」
「…………」
「ですからその後、誰とはなしにあの海岸を『しろほねかいがん』って言うようになりまして。ええ、『白骨』でしろほねです。温泉街に似た名前があって、あちらさんは『しらほね』って読むみたいですが、別物ですよ」
「しろほね……」
「ええ、『しろほねかいがん』。その後、田中角栄の日本列島改造計画か何かで、リゾート開発が進んだでしょ? その時代に白骨はまずかろうってことで、音を似せて『しろはね』にして『白羽』の字をあてたんですよ」
「…………」
「だからね、本当はロマンも何もありゃしません。地獄ですよ、地獄。あの時私はほんのガキでしたがね、流れ着いた死体をずいぶん見たもんですよ」
「…………」
薄ら寒い気分になり、私は茶碗を置いた。さっきの明るい気分など、ひとたまりもなく消し飛んでいた。
* * *
「……知ってたって?」
「ええ、知ってたわ」
帰り道、ハンドルを握りながら私は言葉を失った。
すこし脅かしてやろうと、さっきの老人の話を彼女にした、その返事がこれだった。
「だって、ガイドブックに出てたじゃない」
彼女は、事もなげにそう言った。
私は、それ以上何も言わなかった。
お株を奪われたからではない。
あの凄惨な話を知りながらなお、彼女はあそこを選び、楽しげにはしゃいでいたのだ。
その海岸の悲劇の事など、おくびにも出さずに。
助手席の彼女は、とりとめのない話を続けている。
その屈託ない笑顔を横目で見ながら、私はふと、冷たい物が背筋を落ちていくのを感じた。
遠浅の明るい海が隠していた闇を垣間見た、あの感じによく似ていた。
END