猫は人間が嫌いだった。
最初の記憶はダンボールの中。真上の星空は今思えば凍てつく冬の大気、身を寄せ合ったきょうだいたちは一匹また一匹と冷たくなっていった。
それを生き延びて後も、野良と見れば追い回す、水をかける、餌を隠す。彼への人間の仕打ちとはつまり、害意であり敵意だった。
極め付けが、今この場の惨状である。数日前に近所の飼い犬に噛まれた足で道路を渡り損ねて撥ねられた。頭から激突したアスファルトは信じられない硬さで、致命傷に身動きも取れないまま彼は緩慢に死につつあった。
水漏れのように失われゆく意識の中、猫は人間を憎んだ。
これまで向けられた悪意を塗りつぶし、向けられなかった関心を埋め尽くすほど執拗に、ただ憎んだ。
と、彼は痛みがぼんやりと薄らいでくるのを感じた。逆に意識は次第に澄んできたが、傷が癒えている訳ではなかった。むしろ、魂がゆっくりと体から離れて浮上するように思えた。
同時に、これまでにない力が沸き起こるのを感じた。これまでには想像もつかなかったほど猛々しく禍々しい力。これをもってすれば、何でもできそうな気さえする。
この力で、人間どもに思い知らせてやる。
そう思った途端に体内で煮え返る爆発的なエネルギー。そう、このままでは済まさない。俺が受けた痛みを何千倍、何万倍にして、奴ら一人一人に返してやる……
と、その頬に、あたたかいものが触れた。
はっと見上げると、人間の女が彼の頬をなでていた。今まで知り得なかった優しい手。自分を見つめる彼女の目に、彼は慈愛さえ見た。
何だ、人間にもいい奴はいるじゃねえか。そう思ったとき、彼の意識はやわらかく溶けていき……
何てことしやがる。
突如我に返った。
同時に沸き起こる怒り。畜生、冗談じゃない。この女、ひとがせっかく手に入れた復讐のチャンスをぶち壊す気か。許せない。そんな事させてたまるか。
そうだ、この女に祟ってやる。こんなくだらない真似をしやがったこの女に、それこそ全身全霊で祟りまくってやる。見てろ。これから先、お前が幸せの絶頂にいるその瞬間を狙い済まして、ありったけの恐怖と絶望のどん底に叩き落してやる。
こうして猫は彼女にとり憑いた。復讐をより完璧なものにするために、彼女ができるだけ幸福になるよう、間違っても事故など起こらないよう、悪意の爪を研ぎながら四六時中三百六十五日見張り続けた。
彼女が平穏無事な生涯を終えたのは、そんな理由からだ。
END