叔父が危篤だと報せを受け、養護施設に駆けつけたのは私一人だった。もともと内気で人付き合いの極端に少ない叔父のこと、連絡が行ったのも私だけかもしれなかった。
介護人の後に続いて薄暗い部屋に入ったとき、まず目についたのは部屋一面を埋める本だった。
いや、本ではない。ノートだ。
様々な幅の横罫線、あるいは方眼、あるいは無地。糸かがりにホットメルトにリング式。とにかく、およそこの世でノートと名のつくものを片っ端から集めに集めた様相だった。
――でもね、全部白紙なんですよ、それ。
私の視線に気づいたか、介護人が言った。
――自分はいつか大作を書くから、ってよくおっしゃってはいましたけれども。
そういえば、私が幼かった頃、まだ祖父の家にいた叔父がそんなことを話していた気もした。
あれからほぼ二十年、ベッドに横たわる叔父の顔はがっくりと老けこみ、苔むした石のような沈黙を感じさせた。もういくばくもないのは一目で知れた。
――叔父さん。僕だよ、わかる?
耳元で声をかけると、叔父は目をうっすらと開いた。
だがその視線はうつろに宙を漂うばかりで、私の顔に焦点を結ぶことはなかった。
こんな小さな部屋の中、たった一人で叔父は何を考えていたのだろう。ノートの海はどこを見渡してもただ白いばかりで、その断片すら窺うことはできない。
と、不意にけほ、と咳き込む声。はっと振り返ると、叔父の体が微かに震えている。介護人が慌てて駆け寄り、叔父の耳元で名を呼んだ。しかし叔父の呼吸は次第に荒く、不規則になってゆく。
そのとき――部屋中がざあっと黒くなった、気がした。
文字だ。
部屋を埋め尽くすノートたちの、白紙だったはずのページに文字が浮き出ている。
私はその一冊に飛びついた。物語だ。もう一冊。これも物語。こちらも。あれも。先ほどまでの部屋中の白紙はみな、長短様々な物語でびっしりと埋め尽くされていた。
私たちは片っ端からノートを確かめようとしたが、できなかった。その一話一話の何と魅力的なことか、これほど面白いものを今まで読んだ事がない。どのページにも私たちが思いもよらなかった世界が輝き、あふれ、ひしめいていた。
叔父は、やったのだ。
が、その文字が見る間に薄くなり始めた。読み進めようと慌ててページを繰ったが甲斐はなく、やがて叔父の命とともにあのきらめくような物語は残らず消えうせ、元の白い海に戻ってしまった。
END