視界に入るたびにいじめていた子が二、三日休んでいたと思ったら、手首に包帯を巻いて登校してきた。
事情はおおかた察したが、欠席日数を見るに引っ掻き傷と大差ないのだろう。人生の始末すら人並みにできない彼女のどん臭さを、私は陰で友人たちと笑い合った。
* * *
一時間目は何事もなく始まった。
幸か不幸か私の席は彼女のすぐ前だ。普段なら配布物など回さないところだが、さすがに先生が意識している気配があり、私は不承不承プリントを後ろへ投げてやった。
聞き慣れぬ小さな声が耳の横を通り過ぎたのはその時だ。
ちょうど後ろの席の辺りからだ。始めは隙間風かと思ったが、すぐにそれが節回しを持っているのに気づいた。
奇妙な声だった。少年のそれのように細く澄み、歌詞らしい文言は聞き取れない。すぐ近くでも聞き逃すほど微かなくせに、意識してしまうと耳を捕らえて離さないのだ。あるかなきかの旋律が波のようにたゆたい、目に見えぬ紋様を宙に描いてゆく。
強まりも途切れもしないそれは私をとりこにし、チャイムが鳴るまで魅了し続けた。結局その時間の授業は何ひとつ頭に入っていない。
* * *
休み時間、さっそく友人とつるんで彼女をトイレに呼び出した。個室でいつものように足を蹴飛ばすと、彼女はたわいもなくよろけてドアの鍵に手をぶつけた。
友人たちの押し殺した笑い。だが私のそれは喉の奥に詰まった。
あの声。
それが急に再び流れてきた。いや違う。延々聴き過ぎて分からなくなっていたのが、急にトーンを変えたのだ。
先程までは一人の声だったそれが、確かに二重奏になっている。
二つの声はほんの少しずつずれながら緩く絡まり合い、忍びやかなメロディを描いてゆく。その調べは先程にも増して離れがたく、私は自分が今何をしているのかをいっとき忘れ果てていた。
友人たちの無遠慮な囃し言葉で我に返ると、彼女の手に傷ができていた。
ぶつけた拍子に切ったらしい。友人のひとりが彼女を突き飛ばし、また新しい傷が増える。
その瞬間、歌声が三重奏になった。
まさか。私は凍りついたように傷を凝視した。
別にどうということもない、かすり傷だ。だが見つめているうち、それがまるで薄く開いた口かなにかのように思えてきた。
埒もない。頭で否定しようとしたとき、別の友人が彼女の頭をはたいた。どっと笑い。それでようやく、私はくだんの声が友人たちには聞こえていないらしいのを悟った。なのになぜか、声はまだ流れ続けている。これほどの大騒ぎの中ですら。
と、彼女がふと顔をあげ、目が合った。
表情のない目だった。いささかの喜怒哀楽も読み取れない。
途端、チャイム。弾かれたように、私と友人たちは教室に急いだ。
彼女は後からのろのろ教室に入ってきた。あの声はやはりその周りに漂い、調べは天井を抜けて空へ溶けゆくかに思われた。
その日の私のノートは全科目、白紙に終わった。
* * *
帰宅後も、声は耳の底に残り続けた。宿題も何もかも手につかず、ただもう一度あの響きを耳にすることばかり願った。
布団に入った後も目が冴えて仕方ない。牛歩のような時間の歩みに耐えかねて灯りを点けたが、さりとてできることもない。どうにも行き詰まり、いらいらと指のささくれをむしった。
ぴりっと電気のような痛み。それに乗せ、まるで耳が通るようにあの声が聞こえ始めた。
思わず打たれたように指を見下ろした。糸より細い血をにじませ、傷が歌っている。私の、この傷が。
えも言われぬ陶酔。それは眠りを誘い、私は夢で一晩中、その声に酔いしれていた。
* * *
が、次の朝、登校した彼女が席に着いた途端、私の幸福は粉々になった。
彼女の引き連れる三重奏が、私の貧弱なソロを無残に破り、かき消してしまったのだ。
予想外の屈辱。無言で机の上に目を落とす彼女を、私はけだものの目で睨んだ。
この落とし前をどう付けさせようか。頭で早くも休み時間のプランを練り始めたが、その時とんでもない事に気づいた。
彼女の傷が増えれば、その分あの声が美しくなってしまう。
致命的な事態だった。彼女の声に勝ちたいなら、少なくとも彼女にこれ以上怪我をしてもらってはまずいのだ。
すぐさま私は友人たちにメールした。今日からはシカトしよう、あいつ汚いし、先生も怪しんでるみたいだしさ。友人たちは不満げだったが、先生の二文字が効いたか、みな同意してきた。
その日の休み時間の味気なさたるや。後ろの彼女を脳内で三度ばかり八つ裂きにしたが気は晴れない。何とかしてあの声を打ち負かしてやりたい――
なら、自分の傷を増やせばいい。
身震いした。恐ろしい、だが現状唯一の解決策だった。
周囲の目を盗み、私はそっとカッターを取り出した。
* * *
彼女の声は、日ごと弱々しく薄っぺらになる。傷が治ってきているのだろう。
比べて私の声は、日を追うごとに荘厳に、軽やかに冴え渡ってゆく。
ざまあ見ろ、この声こそが至高であり、私ひとりの喜びなのだ。間違ってもこんな女の後塵を拝することなどあるものか。
もはや絆創膏を貼る場所も少なくなった両腕を抱きながら、私は彼女に勝ち誇った目を向けた。敗れた屈辱ゆえにか、彼女は私を見ようともしない。
END