WORKS文字書きさんに100のお題>077:欠けた左手

 左手をポケットに突っ込んだまま暮らし続けて半年経つ。
 かつて、僕のその手は通りですれ違う人々の懐から財布を抜き、ポケットからモバイルを抜き、バッグから音楽プレイヤーを抜いていた。誇張でなく、それだけで生きていけたのだ。大都市のど真ん中とあって観光客も多く、獲物には事欠かなかった。
 あの日も新興国から来たと思しき小柄な旅行客のバックパックにそっと左手を入れた。指先が財布らしい塊に触れたと感じるや、すっと身を離してその場を去った。

 物陰で確かめると、左手が無かった。

 手首から先、ちょうどバックパックに突っ込んだあたりがそっくり消え失せていたのだ。
 切り落とされたわけではない。境界は不可思議にぼんやりと霞み、そこから先は触ろうとしても空を切るばかり。明らかに左手は、ここにはない。
 なのに感触があるのだ。繋がっていないはずの左手が、まだ財布を握っている感触が。
 しかし僕に分かるのはそこまでで、左手をいくら動かそうと試みても感触は変わらない。つまりは財布を持ったままぴくりともせず、バックパックの荷物に挟まっているらしかった。
 そこまで分かって、慌てて路地へ出た。自分がスリである現実などかなぐり捨て、血眼であの旅行客を探し回ったが、相手はとうに人混みへ消え、それ以来一度も見ない。

 * * *

 話にはまだおまけがある。バックパックと共に去った僕の左手はどうやら世界を転々としているらしい。
 感触でわかるのだ。
 やたら暑い(または熱い)場所にいるのか、手の甲をじりじり炙る熱を伝えてくることもあった。あるいは耐え難い冷たさを伝えてくることもあった。ちりつくような不快な痛みも、ねばねばした物を掴まされ続ける感触も。あるいは全く無味乾燥な状況で、何日も放置され続けたこともある。
 最初は毎朝目が覚めるたび、今日はどんな目に遭わされるのかと憂鬱になった。無論痛みで起こされたこともあるし、考えすぎて発狂しかけたこともある。
 人に話したことはない。堅気の相手にはもちろん、同業者にも。言えるわけがないではないか、スリが手をスリ取られたなど。
 だが最近はそんな状況にも慣れたか、次第に淡々とした日常が戻ってきた。残った右手でも仕事はできるから、問題はないといえばないのだ。
 ただ一つ気になるのは、街中でコートのポケットに手を突っ込んでいる人間がどうも増えたように思えることだ。このところぐっと寒くなってきたから、きっとそのせいなのだろうが。


END


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