サイレン、またはセイレーン。美しい歌で船乗りを迷わす魔物。
* * *
巫女である彼女の仕事は、神殿の祭壇の上で歌うことである。と、周囲は言う。
周囲が言うからには事実なのだろうし、事実そうしている、はずなのだが、自分の歌を聞いたことは、彼女にはない。
祭壇の上にひざまずき、彼女は頭をたれる。ゆっくりと立ち昇る香の煙と神官の祭文が、彼女の頭をぼやかしていく。
次第次第に薄れる意識の中で、彼女は、自分が何かの旋律をつぶやくのを聞く。
それが神への歌。
世にまたとない美声の奏でる、美しい旋律なのだそうだ。
だが目が覚めた時、彼女はそれを覚えてはいない。
神官たちも、王侯貴族も、そして庶民も。皆がそれをほめそやす。
彼女ほどの巫女は他にいないと。
きっと神々もお喜びに違いなかろうと。
みんな、何を騒いでいるのかしら。私にその歌は聞こえないのに。
私にだけは、聞こえないのに。
やがて、東隣の帝国に、その国は押しつぶされる。
邪教だ、まやかしだとの触れ込みで、神殿は破壊され、神官たちは捕らえられる。
無論、彼女もその中に。
人々を迷わす魔女だと言って、侵略者は彼女に火をかける。
自分をくくる十字架の、足元から迫る炎。
……馬鹿ねえ、何を怯えているのかしら。
何を惑っているのかしら。
私には、聞こえないのにね。
END