だから、やっと彼女と休みが合った今日この日に、何が悲しくて目的地と正反対方向八駅先の高級輸入食品専門スーパーに出向かねばならんのだ。
もう大概月二回の恒例行事になっている気がするけど。それもどうかと思うんだけれど。
この際はっきり言わせてもらえばアレはそもそも人間の、もっと言えば僕なんかより遥かに所得の多い人々のためにあるのであって、間違ってもバイトと若干の仕送りで食ってる学生や、まして成人男性の手のひらサイズの子猫のための場所じゃないだろ。ついでにあそこは街そのものが見ての通りの郊外高級住宅地で、輝くばかりの駅舎を後に街へ一歩入ることすらためらわれるほどの土地柄だ。
だいたい、なんで、猫に、ゴルゴンゾーラチーズが、要るのだ。ニオイはともかく塩分がだな……
といった押し問答を朝七時に起きた(より正確には、耳元でスーパー名とチーズ名を連呼する声で起こされた)瞬間から予定出発時刻の九時現在まで続けているが一向に埒があかない。
いつもであれば、結局僕はこのまま駅に入って改札を抜け、下り線のホームに降り、各駅停車で八駅揺られた挙句、このサビ模様の小うるさい猫のために金を捨てる。それがここ半年、ひと月ごとにきっちり二回繰り返された成り行きだ。
「いいの? そんなこと言っちゃっていいの? ボク怒るよ?」
怒れ。勝手にしろ。
今日という今日は心を鬼にせねばならない。なんといっても往復運賃400円、プラス最低600円からの食材費が毎回かかるのだ。学生がATMで一回に下ろす金の単位は四桁だって知ってるのか。知ってるのかお前。
「しもべなのに」
うるさい。そもそも誰がしもべだ、誰が。
そして今日が何の日か分かってるのか。分かってるのかお前。繰り返すが、デートだ。それも、半月ぶりの。なんとぴたり同じ頻度だよ、お前のご馳走買いに行くのと。それをペットのエサごときで……
「ボクさけぶよ? 噂になるよ? 隠し子いるって噂になるよ?」
「え」
冷や水ぶっかけられた体でテンションが下がった。
今日び、この立地でここまで安いアパートは正直、ない(今だって大家の好意で家賃が抑えられてるようなもんで、それすら最近雲行きが怪しい)。今ここで不審な噂がたったら非常に、非常に面倒くさい。。
おまけにそもそも、ここは原則ペット禁止だ。こいつの大声でバレていないのが不思議なくらいなのだ。
「でしょ? じゃ、どうすればいいのかな」
でしょ、じゃないだろ。どうすればいいのかな、じゃないだろ。言いたいことが喉から出ないまま、僕はふらふらと駅のホームへ降りた。
四駅揺られて気がついた。これ、下り線だ。
その後、大パニックでホームを二度間違え、うっかり乗った快速急行で目的地を十三駅行き過ぎ、結果五十分遅れで辿り着いた改札外で仁王立ちする彼女の足元、公衆の面前で米つきバッタのごとく額を床のタイルに打ち付けている僕がいた。
* * *
事情を聞いた彼女からはとりあえず勘弁してもらったものの、昼食は僕のおごりになった。まあ、そこはこちらの落ち度なので仕方ない。なにせペットの猫にかまけたのだ。ペットの猫に。
彼女が選んだのは前から試してみたがっていたという、パスタのテイクアウトだった。
「ほら、テイクアウトだとちょっと安いし、みんなで食べられるでしょ? そこの公園、芝生広いしさ」
あれ、おかしいな。天使がいる。僕、人間と来たはずだったんだけどなあ。いや、猫も付いてきたけど。いや、猫はどうでもいいけど。
「あたしこれがいいや、ミートボール」
「え? そんな。いいよ、もっと高いのにしたら」
「ううん、一番人気なのよこれ」
そう、これ。これだよ。この気遣い。どっかの猫とは大違いだ……
「ジン君、ゴルゴンゾーラ味、あるよ。これにしたら?」
え。
彼女の指差す先を僕は呆然とたどった。ゴルゴンゾーラチーズソース、1,300円。
当店最高額。
「あ、最高。しもべ、これにしなよ」
おまえはいい。
「あの、シオンちゃん、その……。もしかして」
「ううん、怒ってないよ全然」
横でにっこりとほころぶ天使の顔、その目の奥に夜叉のひらめきを僕は確かに視た。
あれ、おかしいな。空気がしょっぱい。
まだ何も食べてないのに。
END