ホットケーキミックスなんか使わなくったってホットケーキは焼けるよと彼女が言う。
僕の脳内レシピではどう考えてもお好み焼き的なものしか浮かばないので、半信半疑で訊いてみると、ベーキングパウダー使えばいいんだよとの返事。
気抜けしたと言うか目から鱗と言うか、考えてみればそりゃその通りである。膨らますには膨らし粉なのだ。
一人暮らしのさがで小麦粉は常備している。そしてベーキングパウダーも(数年前に一念発起してパンなど焼こうと試み、案の定ダメで放置したのが)ほぼ一缶残っている。卵はあいにく切らしているが、正直これ以上カロリーを上げる気がしない。
何しろ冷蔵庫には、商店街の八百屋のお値打価格で一カゴ買ったら隣のカゴまでおまけされた、バナナがまるまる四房眠っているのだ。
購入二日で自重により下部から溶け始めたそいつら全員、何としてでも原形のあるうちに食いつくさねばならない。で、昨日おととい飲んだバナナシェーク以外に考えついた手が、ホットケーキというわけ。
幸いなことに朝から雨だ。台所はもう暑くないだろう。
小麦粉・ベーキングパウダー・バナナを教わったレシピ通りにボールへ叩き込み、馴染むまで混ぜる。すでに柔らかいバナナはさほどの苦もなく細切れになり、まあこんなもんかなと思える頃には程よくフライパンが温まっていた。
タネを投下しようとして油を引き忘れていたことに危うく気づき、さんざバチバチやりながら悪戦苦闘の末にタネを広げて蓋をしたとき、万年床の寝室から聞こえるか細い声にやっと気づいた。
* * *
ペットの猫が腹を下したのは夜中からだ。
昼間の暑さに耐えかねて、よせと言うのに氷入りのバナナシェークをがぶ飲みしたのだ。
が、責任の半分は僕にもある。結局いつものわがままに負けて飲ませたのも僕なら、天気予報を確かめ忘れて夜間の気温低下に気づかなかったのも僕だ。
明け方こいつのチイチイチイチイいう声で目が覚め、薄ら寒さにようやく事態を察したわけで、お粗末も甚だしい。
慌てて動物病院に駆け込んだが、あいにく休日だった。豪雨に打たれてとぼとぼ歩く帰り道は、傘を小舟に大海を揺られる心もとなさだった。
お腹痛ーいー。すすり泣き混じりの声は、普段とはかけ離れた情けなさだ。いつもの僕ならここぞとばかりにいじってやるところだが、そんな気さえ起きない。
フライパンの火は止め、冷蔵庫に保管していた猫用鍋の中身をいくばくか、電子レンジで温めてやる。
「スープ飲みな」
「いらない……」
これも、普段のこいつからは想像もつかない。魚屋で仕入れたカマから煮出したスープである。他でもない、猫の分際で舌の肥えたこいつが昨日、店先で買え買え買え買え騒ぎ立てて粘り勝ちしたものだ。
なのに肝心要のこいつがこの有り様だ。
それでもスプーンを口元に持っていってやると、猫そのままに(当たり前だが猫そのままに)舌を動かしてスープをなめる。まったく、こいつにしては殊勝だ。そして、曲がりなりにも物を食うなら見込みはあるだろう。多分。
飲むだけ飲んで猫がまた寝てしまうと、僕は台所に戻った。
幸いなことに朝から雨だ。台所はもう暑くない。
* * *
フライパンに火を入れなおすと、程なくじりじりと篭った音がしだした。
思い出して襖を少し開ける。猫の声を聞き逃しでもしたら、治った時にうるさいのだ。だが、寝室のさらに向こう、サッシの戸から聞こえる雨音で、僕には寝息も聞こえない。
残りのバナナを冷蔵庫から出し、もう一個のボウルも棚から下ろした。今日はこれを全部焼いてしまうつもりだった。
バナナのなくなった冷蔵庫の中には鍋が二つ。ひとつは猫の分のスープと魚肉、もうひとつは僕の分だ。
明日こそ病院に行って、注射の一本も打ってもらって、治ったら一緒に食うのだ。ホットケーキのお礼に彼女も呼ぶか。
それまではホットケーキ暮らしである。なにせこの量、食うぶんには事欠かない。
朝から雨だ。音に降り込められて、この部屋はまるで方舟だ。外はきっと海のようだ。
END