夜が更けても気温はいっこうに下がらない。街灯に青白く見えたアスファルトはサンダルを脱ぐとまだ熱かった。
こんな時間帯とはいえ人通りがないわけではないので、できるだけ何もないふりで歩く。ふりも二十日続けば板についてくるもので、今すれ違った女性などはスマホから顔を上げようともしない。
街灯の下で地図をひろげる。大通りのこっち側はほとんど行ってしまったから、今日は通りを渡った先、そこの信号のところから奥へ入ってみよう。越してきて三年になるが、駅と反対側なこともあり、そういえばほとんど未知の領域だった。
行ってみて、今回ははずれかもしれないと思った。地図で覚悟はしていたがほとんど住宅街で、ぽつぽつ光る街灯のほかには灯りもない。
少しひやりとした。自分の裸足を棚に上げてなんだが、あたしも女のはしくれである。背後から誰かに忍び寄られるなどという想像はいい気持ちがしない。
それでも、まずはいつもの通り、地図にあった通りを片っ端から当たることだ。意を決して(と言うほどの悲壮さはないが)街灯をたどるように進んでいく。
五百メートルばかりも進んだろうか。危惧したとおり何の収穫もなく、時間帯から言ってもそろそろ戻ることを考えるべき頃合だ。
それでもここまで来た以上、後ろ髪を引かれた。未練と分かってはいたが、もう一ブロックだけ進むことにした。
と、横合いから光。コンビニの夜間納品らしい車が、目の前の路地から頭を出した。深夜帯に乱暴なことだ。あえて渡らず、相手を道に出してやる。車が進んだところで、その後ろを通って斜めに路地を横切る。
渡りきったところで、ふと妙に可愛らしい色合いに気付いた。古い住宅街にしては洒落た洋菓子店の吊り看板。店構えが小さいのもあり、目の前に来なければ見落としていた。
《期間限定 ハチミツアイス 1カップ \250》
ガラス扉に、専用のカラーペンで手書きされた文字。
ぴんときた。見つけた。今日はこれでいく。
ひとつ為遂げた安堵とは別の何かで泣きたくなった。毎晩こうだ。
* * *
やはり空調には気を使われているらしく、病院の中は暑くも寒くもない。表のかんかん照りとは別世界だ。
805号室。右手、ドア側のベッドに声をかける。
「ジン君」
窓のほうを向いて横になっていたジンくんが、ぱっとこちらを向く。
「や、シオンちゃん。悪いね毎日。暑かったんじゃない」
「どってことない」
本当は来るなりトイレに駆け込み、汗だくの体をウェットティッシュで拭き倒してきたのだが、そこは見栄だ。
「あのさ、これ、お見舞い。ハチミツ味のアイス」
「ハチミツ? すごいね、食べたことない」
「近所で見つけたの。どう? 今無理なら、ナースセンターで置いといてくれるみたいだから。もう、まんまハチミツなのよ」
「もらう、ありがと。アイス、ひっさしぶりだあ」
ジン君が嬉しそうに――実に嬉しそうにアイスを口に運ぶ。別にイケメンでもないけど人懐こい顔。小さい頃からずっと変わらないのだ。
「うわ、ホントにまんまハチミツ。こんど場所教えてよ、一緒に行こう」
「そうね。このお店、見つけたのが偶然なのよ。歩いてたらトラックが路地から出てきてさ、あたしはその後ろをこう、斜めに渡ったわけ。……」
ジン君が体調を崩し始めたのは数年前。検査の末、ちょっと厄介な病気がわかったのが去年。そしていよいよ、ひと月前にここに入院となった。
手術は容態と、ドクターの順番と、両方のタイミングが合ったとき。それを聞いた二十日前から、あたしは夜な夜な、近所を歩くようになった。
きっかけは、病床のジン君が外の話を聞きたがったからだ。昼間が内勤で話すネタを集められないと言うのもあったが、もうひとつは願掛けだった。
百晩こうして話をあつめ、ジン君に聞かせ続ければ、きっとどこかの神様が見ていて、奇跡でもおこしてくれるのではないか。あたしの歩く夢とうつつの境界に、見続ける夜と光の境界に、そんな何かが隠れていはしないか。
地図を片手に、足裏にアスファルトを感じながら、そうやって今夜もあたしは歩き続ける。
END