夜中の十二時近くに裸足で帰ってきて一人侘しく足を洗う馬鹿も国中であたしだけかと思うけど、日課なのでもう仕方がない。いや、同行の子猫もいたか。
あとは歯だけ磨き、ふらふら布団に潜り込んだ。枕元の籠に猫が丸くなるのを確かめ、灯りの紐を引く。
* * *
うつらうつらして嫌な夢を見た。
土砂降りのなか、水浸しの道路を裸足で歩いていた。泥水がくるぶしまであるのに足は上がらず、引きずって進むしかない。服はずくずくに濡れていて、裾から雨が滝のように落ちていく。
嫌だな、ジン君のお見舞いに行かなきゃならないのに。これじゃ入れてもらえない。
病院の正門はぴったりと閉ざされており、恐る恐る横の守衛室へ向かう。IDカードの有無を訊かれ、仕方なく無いと答えた。おそらく門前払いの口実に過ぎまい。
文字通り埒が明かず、病院に背を向けた。土砂降りは今や滝のようで、水かさも膝下まである。重い水を膝でかき分けかき分け行く横あいをネズミや犬の死骸が流れていく。同居の子猫が混ざっていやしないかと嫌な予感がしたとき、案の定目の前にそれが流れつく。今さら手の施しようもなく、泣きながら歩いた。どうせ雨の中だし、誰にもわかりはしない。
それに、たかだか一日病院に入れなかったからといって、「日課」をさぼるわけにはいかない。
百日続けて夜道を歩き、物語を拾い集め続けなければならない。
さもなければ、ジン君が遠いところへ、あたしの手の届かないところへ行ってしまう。
と、すぐ後ろを誰かが……何かがついてくるのに気づいた。首筋にかかる生暖かい息で獣と知れる。
あたしはそいつを知っていた。ただの獣ではない。以前、夜道で出遭ったろくでもない奴だ。猫が死んだから、それにつけ込んでまた出てきたに違いないのだ。
「物語、探してるんだろ」
鼻息混じりの粘っこい声。無遠慮に並んでくる気配がする。振り払うのすら嫌で、溺れるように急いだ。
なのに憎らしいことに、相手はやすやすとあたしについて歩くのだ。
「目玉、貸してあげるよ。ほら」
視界の隅で何かがちかりと光った。それも知っている。奴の眼だ。水晶球か何かのように、見たいものをなんでも覗くことができる目玉。
何かがざぶりと背中にのしかかってくる。重さに負けて膝をつき、腰までが水に浸かる。
首もとを何かが這いまわっている。たぶん湿った鼻先だ。荒い息は恐ろしく生臭いのに、拒む気力が出ない。
すぐ耳元で声。
「もうあっちこっち、歩かなくていいんだよ」
――いや、駄目だ。
急に意識がはっきりし、相手の鼻面を肘でしたたか打った。くぐもった悲鳴をあとに、もがくように前に出た。
どうかしていた。あの目を借りたところで、見られるのは自分の知っているものだけだ。
知らないものを集めなければ、意味が無いのだ。
* * *
途端、目が覚めた。
夢の中のことだと思っていたのに、なぜか獣臭さが微かに鼻をよぎった。灯りを点け、布団の周りじゅうを探しまくる。
「なに探してるの。これ?」
寝ぼけ眼で、子猫が何かをぽいと放り出した。
あの目玉。
やっぱり入り込んでいたのだ、あいつが。予想はしていたが背筋が寒くなる。
「なんかこっそり置いてったから、かじったら逃げてったよ」
「……ありがと」
あやうく、猫に助けられたわけだ。
ドライバーを持ってきて、その目玉を丹念に砕いた。どうせまた来るだろうけど、痛い目には合わせておいた方がいい。
――ジン君、ごめん。ごめん。
涙が出てきた。
END