ぞッ、ぞッ、と地底から響くような息遣い。あたしの呼吸だ。地を踏む足裏は硬く、一歩ごとに水溜りを蹴立てる。闇にぽつりぽつり電燈が浮かぶが、そんな目印などこの鼻があれば不要だ。
連れの猫が足元で尋ねる。まだ帰らないの。
まだよ。まだに決まっている。まだ今夜は見つけていないのだ。
と、背後からひたひたと着いてくるなにかの気配。猫ではない。もっと大きく、暗く、卑しいやつだ。隠れているつもりだろうが、生臭い息と濡れた足音はごまかせない。
そいつを無視し、あたしは闇を突っ切って歩き続けた。
物語を。
物語を探して持ち帰らねば。
あのひとに。
道端の民家。竹垣の中の低い植え込み、その湿った闇。重たい緑の匂い。くろぐろと濡れた飛び石に続く家、窓にはぴたりと雨戸が下りている。
ここではない。体を離し、別の場所へ向かう。
灯りの落ちたショーウィンドウにべたりと両手を突いた。婦人服をまとったトルソー達はしんと動かない。そのあいだ、奥の奥の暗がりをじっと見透かす。棚。カウンター。大きな姿見。何か映りやしないかと覗き込む。
ここでもない。
そこを離れようと向き直りかけた時、姿見の中を何かがよぎった。巨大な獣。
* * *
この頃、ジン君の容態は安定している。決して良くはないけど。
「あのね、ゆうべ帰る途中、ヤモリが五匹もくっついてる壁があったのよ。ヤモリって面白いのね、口開けた時キシッて鳴いたの。ほんとよ」
「タイとかに、しっかり鳴くやついたよね、ヤモリって」
「うん。あれは声帯がある種類だって。でもここらのも案外、そうかも」
あたしの話を、入院してから身動きの取れないジン君はいつも面白がって聞いてくれる。病室はモバイル禁止だし、ネットもテレビもそう自由にはならないから、毎日面白そうなネタを集めては持って来ているわけだ。
「けどさシオンちゃん、最近夜の話ばっかりするね。帰り遅いの? 気をつけてよ」
「……え」
どきりとした。
確かに、あたしが話を集めに行くのは夜の夜中だ。
バイトが終わって、ジン君の見舞いに行って、一度家へ戻って食事やら課題を片付けて。
いい加減周りが寝静まった時刻に、やおら立ち上がって出てゆくのだ。
それも、裸足で。
――そういえば、なんであたし、あんなことしてるんだろう。
普通に考えて、テレビや雑誌を見れば話題には事欠かない。ネットの話題をプリントアウトしたっていいし、クロスワードなんかを持ち込むのもド定番だ。日常や共通の知り合いの話題だっていくらでもある。現に、大学の友達とはそうやって喋っているのだ。
百夜続けて、裸足で物語を探し集めて聞かせれば、ジン君は治る。
……そんなたわ事をあたしに吹き込んだのは誰だ?
脳裏をよぎる、大きな影の幻。
「ねえ、あいつどうしてる?」
不意にジン君の一言。見透かされたようで心臓が跳ねた。
が、同居の猫のことだとすぐ気付いた。元はジン君のペットで、入院騒動以来あたしが引き取っている。
「ん、元気よ。でも相変わらず、借りてきた猫」
「なーんだ。逆に見てみたいなァ」
本人? のせいか飼い主のせいか、ジン君の所にいたころはとにかく我儘で舌の肥えた猫だった。それがあたしのところへ来てからは別人? のようにいい子にしている。要は、飼い主が心配なのだ。
「連れて来られたらいいんだけどねえ」
「僕も寂しいって言っといてよ」
「うん、伝えとく」
そろそろ時間切れだ。立ち上がる前に、いつも通り軽くキスする。明日もまた来られるように。
後ろ髪を引かれながら病室を出るまぎわ、洗面台の鏡が視界をよぎった。何気なく目をやる。
獣の貌。
心臓が止まった。凍りついたように凝視する鏡の中にはしかし、引きつったあたしの顔があるばかりだ。
シオンちゃん? 背後から聞こえるジン君の間延びした声に慌てて手を振り、逃げる足でその場を去った。
どかどか階段を降り、廊下を曲がり、生ぬるい風の中に踏み出す。
さっき鏡に映ったのは、あれはあいつじゃなかった。いつもあたしたちの跡をつけてくる奴じゃなかった。
――あれはあたしだ。このあたしの貌だ。
知らず、犬歯で口の中をきりきり噛んでいた。血の味の塩辛さがどうしたわけか心地よい。
END