「なあ、水にあいつの顔が映ってる。あいつが俺を恋しがってる」
「映った。ほら、また映ったんだ」
隣の男が、水の入った椀を彼に突きつけた。
「見てくれ、ほら、あいつの顔だよ。あいつが俺に会いたいって」
「ああ、分かった。分かったよ。そうだな、映ってるな」
無論、彼は適当に相槌を打ったのだが、男はわが意を得たりとばかりに身を乗り出した。
「だろう? あいつはいい女なんだ。こうやって、俺のことを思ってくれてるんだ」
ああ、帰りたいなあ。とんで帰って会いたいなあ。そしたらもう離さないで、朝から晩まで一緒にいるんだ……
きちきちと爪を噛みながら、男はしゃべり続けた。おしまいの方は独り言になっていた。
水鏡に人の影が映ると、その人に想われているのだ、という俗信がある。他にも、着ている物の紐が解けるのは誰かに慕われているせいだ、など幾通りかあり、彼を含めて兵士たちはみな、ため息をついて飲み水を覗き込んだり、紐の解けた解けないで一喜一憂したりしているのだった。
この男の妻は特に情が濃いらしく、このところ、こうしてしばしば影となって水に姿を現している。
彼や周りの者がこの男を邪険にするのは、うっとうしいから、という理由の他に、愛するものに易々と会えていることへの嫉妬のせいでもなくはなかった。
「あ、ほら、また映った」
男が、彼の袖をぐいと引いた。のめりそうになり、彼は慌てて身を支えた。
ああ、またかよ。
小さく舌打ちしながら、男の椀を覗き込んでやる。
途端、ぞうっと鳥肌が立った。
椀の中の水は、とうに飲み干されて空になっていた。
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず
巻二十・4322 若倭部身麿