「あいつの絵、描けばよかった、旅の中、いつも近くに思えたものを」
他の仲間達と港で船を待ちながら、周りの音を聞くともなしに聞いていた。
荷下ろしの喧騒や商人たちの声。時おり女の声もする。
国を出てはや二月半、この海を越えれば目的地に着く、と知らされた。そんな所まで来てしまった。
彼は、残してきた妻の顔を思い浮かべた。
いや、思い浮かべようとした。しかし、あれほど愛していたその顔は脳裏で曖昧にぼやけ、思い出そうとすればするほど遠くにかすんでいくように思えた。
このところ、日を追うごとにそれが増していく。
始めに気づいた時は愕然とした。底知れぬ淵の中に落ち込んでいくようなうそ寒さを覚え、眠れないまま夜を明かした。
そして今、妻のもとを離れて二月半。
忘れていくにも、それを諦め、慣れてしまうにも充分だった。
それでも、せめて妻の絵があったら、と彼は思う。
拙くても、思い出すよすがになるのなら。
出立の慌しさは、結局それを許さなかった。
雑踏の中から、女の声がまた、かすかに聞こえる。
妻の声を思い出そうとしてもその女の声しか浮かばず、彼は目を宙に漂わせている。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く吾は見つつ偲はむ
巻二十・4327 物部古麿