代々、この椅子は家長の書斎専用だったけど、あたしで一家も絶えるのでもう気に病む必要はない。
どこかに気後れはあったが、座る機会は今ぐらいだ。深呼吸して深緑のベロアクッションにそうっと腰を下ろす。
もとが男の人用だから、どっちかと言うと小柄なあたしの体は肘掛のカーブのあいだにすっぽり収まってしまった。腰と背中はふかふかで、もたれて目を閉じると抱っこされている気分だ。
昔、ずっと小さい頃、おじいちゃんはパイプをふかしながら、そうやってあたしを膝に座らせてくれた。机の上には決まって色々ながらくた。きれいに渦を巻いた貝殻や、ホールインワンを決めたボールや、植物の絵が沢山入った知らない文字の本や、船の模型が入ったビンや。あたしが指差し、手に取るままに、おじいちゃんはそれにまつわる物語を語ってくれた。それらは幼かったあたしには不思議そのもので、たなびく煙をかぎながらすっかりその世界に入り込んでしまったものだ。
一方、好きになれない椅子は学校のだ。共通点といったら木を使っていることぐらいで、直線だけのそっけなく冷たい造り。
そう思うのは多分に環境のせいもあるだろう。身分制度改革以来すっかり落ちぶれた家系の、それも一人娘だ。そんな人間がいわゆる「庶民」の学校に通うとなれば、かびくさい家柄など邪魔なだけだった。
大半の人はあたしをいない者として扱う。近づいてくる人はあからさまに指差して何か言う人か、世が世ならなんて慰めにもならない慰めを言う人の二種類。後者も少し経てば、扱いにくいあたしを持て余して離れていく。結局あたしは学校にいる間じゅう、小さく堅い椅子の中に身を押し込めているのがせいぜいだった。
* * *
ある朝教室に入ると、特に相性の悪い女の子達のグループがやたらこちらを見てくる。不審に思いつつも目を合わせないように席へ向かった。
違和感。
椅子がない。後ろでくすくす笑う声がするから、おおかた事情は見当がついた。ただ、早いところ見つけないと授業に支障が出る。教室をぐるっと見回したとき、女の子達が窓の下を覗き始めた。まさかとは思ったが、同じように覗いた。はるか下でばらばらになった、たぶん椅子だった木の破片。
背後でどっと笑う声をずいぶん冷静に聞いている自分がいた。
とりあえず、あんな椅子でもなくなってしまうと案外寂しいものだという事は分かった。ついでに、別の椅子は先生に頼めばいいにしろ、それではもう決定的に、代わりにはなりえないのだという事も。
急ぎ足で帰ると、まだ家の前に古物引取りの荷車が止まっていて、大きな家具類を運び出し始めるところだった。
雑草だらけの庭には机や椅子が点々と出されていた。一度ここに置いてしまい、順番に積んでゆくのだろう。背の高い緑の海の中に浮かぶ家具はみな孤島のようで、草いきれのせいかくらくらした。
が、すぐに意識を戻した。まだやるべきことがある。あたしは急いで家に入った。
庭に戻り、家具に目をやるふりでふと顔をそらすと、案の定彼女達が覗いていた。
さすがに気が引けるのか、目が合うとみな腰を引きかけたので、わざと慌てて目をそらしてみる。
――ねえ、どうしたの。お引越し?
一人が声をかけてくる。あたしの弱腰で気を取り直したらしい。この街の者なら知らぬはずはないのだ、娘一人でいよいよ立ち行かなくなった我が家が家屋敷を売り払い、遠方の親戚宅へ落ち延びていくのを。
ええ、そうよ。うつむいた姿勢のまま答えてやる。
――せっかくだから、見せてよ。貴族のお屋敷なんて、入ったことないわ。
予想はしていたし、そのつもりだった。だが、そういわれてみると案外堪える。それをそのまま顔に出しながら、答えてやった。
入って。どうせお客様なんてもう、来ないんだから。
庭に足を踏み入れた彼女達はきゃあきゃあはしゃぎながら、無遠慮にテーブルを触ったり、引き出しを開けたりしている。もう手放す家具だ。あたしのものではなくなる。心の中で唱えながら、あたしはおじいちゃんの椅子にかけた。
あの感触。こんどこそ本当に涙が出そうになったが、こらえた。今だけは耐えねば。
部屋から持ち出したパイプにタバコを詰め、火をつける。おじいちゃんと同じように。
――あら、いいの? そんなことして。
一人が早速近寄ってきた。いいのよ、最後だし。大人たちがお茶に引っ込んでしまったのを確かめ、あたしは大きくふかした。
それよりみんな、椅子に座ってみてよ。
* * *
大人たちが戻ってきたとき、あたしはもう全てをカバンに引っ込めた後だった。やがて家具が全て運び出され、あたしとばあやの乗る馬車が来たとき、あたしはカバンをそっと覗いた。
お行儀よく椅子に腰掛ける、人形の女の子達。
あたしの一族の家長に代々受け継がれた魔法だ。あの椅子に腰掛けてパイプをくゆらせ、物語に入り込む。それを解けるのは、パイプを吸ったものだけ。
つれてってあげる。あたしの居場所へ。あたしはカバンの蓋を閉め、馬車へ乗り込んだ。
END