盲目の謡唄いの先生
そのうち増えます。
目次
01 盲目の謡唄いの先生
陽気はすっかり春めいて、琵琶を抱えた謡唄いの「先生」は、市の片隅で花の謡を唄い始める。誰もが知る謡も、先生の口から聴くと格別だと皆が口をそろえる。
霞の中の山桜。足元を彩る菫。生まれつき盲目の先生は、自分の目では見えないはずのそれらを楽しげに唄う。
すると立ち止まって聴く者たちは、足裏に柔らかな新芽を感じ、指先に枝もたわわな花房を感じ、頬の産毛に軽やかな風を感じる。吸った息に匂う緑は舌先に滴るような湿気を含み、遠くにヒバリの声がしたようにも思われる。若々しい万物の命が身の周りにひしめく気配、それが唄の聞こえるあいだじゅう続く。
その帰途。夜にしては人が多いようだと訝る先生は、そのじつ百鬼夜行の真っ只中に踏み込んでいることにまだ気付いていない。しかし普段ならそんな人間を生かしておかぬはずの魍魎共は、不審げに遠巻きにして歩き続けるばかりだ。それも道理、先生が戯れに口ずさむのは、かつて暮らした妖怪郷の謠だ。あやかしの間でも今は失われたはずの、一人で三つの声を重ねる謡法を、ヒトの身ながら小声で響かせ、魑魅魍魎を引き連れて先生はゆく。
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02 聖アントニウスの誘惑
盲目の謡唄いの先生は道を間違えたらしく、さっきから周囲の空気やら植物やらの感じがいつもと違うなと思いながら歩を進めると、何やら諍いの場に行き合った。
が、よくよく耳を傾けると、がらの悪い人々がしきりと誰かを遊びに誘っているようで、酒を呑もうだの女のところへ行こうだの景気がいい。肝心の誘われている人は黙りこくっており、話が進展しないところを見ると(否、聞くと)誘いに乗る気はなさそうだ。あるいは、事情があって行けないのかもしれない。ならせめてこの場で楽しんでもらおうと、先生は得意の琵琶でもって明るいやつを唄い始めた。
実のところ先生が迷い込んだのは異世界で、悪魔たちが聖人を堕落させようと誘惑している最中だった。が、根が遊び好きの悪魔たちのこと、先生の謠を聴いて即興で歌って踊りだし、たちまち陽気なセッションが始まった。
ほっぽり出された聖人は目の前の騒ぎに我慢ならず、全員怒鳴って追い出そうとしたが、それも負けた気がして悔しく、ついに自ら踊りの輪に飛び込んだ。
かくて全員の思惑がずれたものの、聖人は後に風狂と頓知を旨とする新たな宗派の祖として名を残した。
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03 機械のうた
帰り道、盲目の謡唄いの先生は聴き慣れぬ音を追って路地に入り込み、何かとぶつかった。実のところそれは音楽ライブ用の楽器ロボットというかロボット式電子楽器で、何らかの音楽らしきものを感知すると搭載AIがそれに合わせて即興で音楽を生成し、再生するのだ。つまりここは少々遠い未来で、型落ちになったロボットが不法投棄されているのだった。
相手を触ってみて、どうやら人の形をした作り物であることを理解した先生は、供養のため琵琶を鳴らしてみた。と、辛うじてバッテリーの残っていたロボットが感知して別パートを奏で始める。先生は肝を潰したものの、すぐにそれがさっき聞こえてきた音であることを了解し、愉快さが勝ってそのまま唄い始めた。それに呼応してロボットが新たな旋律をかぶせる。
実のところこの時代の人間は汚れきった大地を捨てて宇宙へ旅立っており、二人の奏でる謡がこの地上最後の音楽なのだった。即興ライブが終わり、どういう理屈からか先生が元の世界に戻り着いた頃、ロボットはたった今の演奏を保存し、有効状態になっていた自動再生機能で再生した。それを遠い空の人類が聴くことはついに無かったが、大地を人の手からやっと取り戻した黄泉のもののけたちがその周囲で舞い踊る。その筆頭は先生――もちろんとっくに彼岸のひとりとなった、この時代の先生だ。かくて電子と魍魎が幾重にも呼応して謡は無限に層を重ね、ヒト無き世界を彩ってゆく。
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