イベント即興小説
同人誌即売会で出されたお題で小説を書く試み。白丸人言さま(閉鎖)の企画を許可頂いて挑戦。
目次
C85 (2013.12.31)
あやし版古(リク内容:リクエストくれた友人作の小説の二次創作)
一
勝手知ったる足取りで源三郎が二階の部屋へ足を踏み入れると、あるじのし乃雪は何やら一心に文机の上へ並べている。
わざと黙って待ってみたが、生き人形さながらに整った横顔は難しげにしかめられ、こちらへ気づくふうもない。源三郎は大げさに呼ばわった。
「おーお、呼び出しといてつれないねえ、太夫」
と、待っていたように相手はひょいと振り向いた。
「遅いぞ、源の字。あらかた組み上がってしまった」
し乃雪の悪びれもしない顔へ苦笑いを返し、源三郎は文机へ目を遣った。
「これかい、例の……」
机の上には、芝居の一場面が、そのまま再現されていた。
演目は、いま大当りの「忠臣蔵」。紙の舞台の真ん中で、紙人形の四十七士がこれも紙人形の高師直を引き据えている。紙の庭木や屋敷が大道具として彩りを添え、手前の枡席で喝采を送る観客ももちろん紙だ。
つまり、立版古(たてばんこ)――後の世に言う、ペーパークラフト製のジオラマである。
ものとしては、浮世絵の一種だ。一枚の紙に部品と仕上り図が刷られており、買った客は図を頼りに、部品を自分で切り抜いて組み立てる。
芝居や物語の場面、あるいは豪邸名刹。自分で作る楽しみ、仕上りの精巧さが人々に受け、あちこちの版元(出版社)が競って出すまでになっている。
「版元は『いせ寅』か。よく出来てるねェ、八百八町で流行るわけだぜ」
ためつすがめつしながら唸る源三郎へ、し乃雪はいささか不満げに、ひらひらと仕上り図を振ってみせた。
「残念ながら、これは化けなかった」
仕上り図は、当り前といえば当り前ながら、机の上の舞台そのままである。
二
「ごめんよ」
ちょうど客足が途切れたのを見計らい、源三郎が何気ない調子でくぐったのは、深川の小間物屋の暖簾である。
ちっと、櫛を見せてもらえぬか。小指を立てながら意味ありげに笑んだ源三郎へ、店の手代ははい只今と愛想笑いを返して奥へ消えた。
櫛を見つくろってもらう間に、源三郎は一隅へ目をやった。女への買い物とはもちろん口実で、目当てはこれである。
そこに飾られていたのは、立版古……
ただし、この小間物屋の店先をそっくり再現したものだったのだ。
――ふうむ、聞きしに勝るな。
源三郎は腕を組んだ。
門構えや看板は言うに及ばず、棚の品々の並び、果ては柱の木目まで、掌に乗るような紙細工の中に写されている。
――おまけに、人形まで生き写しか。
紙人形も紙人形で、幾体かいるうちの一つは体つきといい、のっぺりした顔といい、まさしく今の手代である。源三郎が思わず(本物の)店の奥をうかがった折も折、当の本人がひょいと姿を現した。
「そちら、ご覧になりましたか」
幾本かの櫛を手に、手代は半分苦笑いである。
立版古が目当ての客には慣れっこらしい。源三郎は素直に頭をかき、白状することにした。
「いや、大したもんだ。噂以上だよ。ほんとに誂えたんじゃねえのかい」
「ええ。神かけて、始めはただの、四十七士討ち入りの立版古でございました」
* * *
今、歌舞伎座で大当りをとっている「忠臣蔵」。舞台は連日押すな押すなの大盛況で、台詞集やら役者の紋を染めた手拭いやらが飛ぶように売れていた。
浮世絵も御多分に漏れず、あちこちの版元が役者絵などを次々に出し、人々は争ってそれを求めた。
神田にある版元「いせ寅」の出したこの討ち入りの立版古もそうした一枚で、初めはまずまずの売れ行きといったところだった。
が、奇っ怪な出来事が持ち上がった。
組み立てた絵が化けるというのだ。
言うまでもなく、立版古を含む浮世絵は版画、つまり量産品だ。誰が買っても組み立てても、出来上りは(上手下手こそあれ)同じにならねばおかしい。
ところが、確かに忠臣蔵の立版古を買って作ったはずが、組み上がりを見てみると、なんと自分の家の一場面である。壁の暦や柱の傷、家具小物に人間までもがそっくりそのまま。
そして、いつの間に舞台が自宅に化けたのか、組み立てた者は誰一人、はっきり覚えていないという。
そんな珍事が数件立て続けに、それも深川界隈に集中して起こった。
事態の奇妙さに、当初はいせ寅の仕込みを疑う向きもあった。が、肝心のいせ寅は首をひねってばかりである。
宣伝にしては手間がかかりすぎるし、神田と深川では隅田川の向こうとこちら、ちぐはぐである。
いよいよもって不可思議だと評判になり、いせ寅の忠臣蔵は売れに売れている。
し乃雪も噂に惹かれた一人で、自由に動ける源三郎に謎解きのお鉢が回ってきたわけである。
* * *
「お嬢さんの芝居土産か何かかい」
「はい、歌舞伎座帰りにたまたま通りかかった店先で求め、組み立てた次第です。版元のいせ寅さんとは商売上のお付き合いもございませんで、不思議なことで……」
「ふうむ」
腕組みで唸りながら、源三郎は何の気なしに、紙細工の店と本物の店とをもう一度見比べた。
(……おや)
本物に瓜二つと見えた紙細工の店内、真新しい作り付けの棚の部分に、うっすら赤い染みが付いていた。
刷りのにじみか、紙のムラか。さすがにそこまでそっくりとは行かないらしい。
話の礼にと手頃な櫛を一本求め、源三郎は店を出た。
三
「立版古が化けた家を回れるだけ回ったが、どこも心当たりが無いとよ。……おい、聞いてるのかい」
土産にした櫛に夢中のし乃雪に、源三郎は苦笑いした。
「七軒中の三軒は歌舞伎座帰り、しかし三軒は評判を聞きつけて求めただけ。客層も買った店もばらばら。確かに手がかりは無さそうだの」
それでも話は聞いていたらしく、し乃雪はすらすら返してみせる。
「残る一軒は武家屋敷、それも旗本でな。木の香もかぐわしい門構えに恐れをなして退散したというわけさ。ま、どのみち事情は似たようなもんだろうな」
源三郎は大げさに伸びをし、ああくたびれたと畳に寝転んだ。
「何をしておる、源の字。版元の調べがまだだろうが」
「人使いが荒い太夫どのだ」
ぼやきながらも源三郎はぱっと起き上がった。正直なところ、この謎に引き込まれていたのだ。し乃雪太夫どのも、はなからそれを見越しての御指名だろう。
四
「あいにく、私どもにも一向に訳が分からず……」
愛想の良い、だがどこかげんなりしたような「いせ寅」の主が、開口一番に源三郎へ返してよこしたのがこの言葉である。
恐らく、同じような事を今までに百遍は訊かれているのだろう。それでも立版古が売れているから追い返すわけにもいかず、なけなしの愛想で応じてくれているに違いなかった。
おおかた予想通りの反応なので、とりあえず版木職人と絵師の名前だけ訊き、源三郎は早々にいせ寅を辞した。
続いて訪れた版木職人は、さすがにいせ寅の主人以外から事情を訊かれるのは初めてらしく、まあそれなりに応対してはくれたが、こちらからも芳しい情報は引き出せなかった。
残るは絵師である。源三郎は、教えられた裏長屋の横丁へ足を踏み入れた。
五
「ちょっと、これを仕上げちまうから」
源三郎を部屋に上げ、絵師はまた絵筆を持ち直した。
待つ間、源三郎は部屋を見回した。
九尺二間の床一面に広げられた下描きも浮世絵も、みな様々な立版古のものだ。
そして、机の隅には、あの忠臣蔵の立版古が組まれていた。この長屋が神田にあるせいか、ここのもやはり化けてはいない。見るともなしに見ていると、声が掛かった。
「待たしたな、これで終いだ」
絵師が筆を置いた。その絵もやはり立版古だ。
「あれ以来、立版古流行りかい」
机の隅の忠臣蔵を指して苦笑いの源三郎に、絵師は腰を伸ばしながらぼやいた。
「ひっきりなしだわ、手間賃は上がらねえわ。いっそこの絵が本物のお屋敷にでも化けてくれりゃ、貧乏長屋ともおさらばなんだが、あいにく何をどうすりゃどう化けるのか、とんと見当つかねえと来てる」
煙草盆を引き寄せた絵師に、源三郎は自分も火をもらいながら訊いた。
「化けたのは、あの忠臣蔵だけかい」
「あれだけだ。おかげで注文が来るのは有難えが、ご期待には……お」
裏口でごそごそ音がする。絵師は床の上のものを隅に寄せ、裏の障子を開けてやった。
そこからひょいと上がってきたのは、猫かと思いきや、一匹の狸である。
――こいつは。
以前、これの同族と一悶着あったのを思い出し、源三郎は知らず身構えた。
が、恐れ気もなくとことこ寄ってきた狸は源三郎の匂いを嗅ぐと、慣れたそぶりで絵師の膝に寝転んだ。
「よーしよし。お客さんだぞ」
絵師の指にじゃれる狸は人懐こく、源三郎が試しに頭を撫でてやった手にも心地よさそうに目を細めている。
「まさか野良じゃあねえよな」
源三郎の言葉に、狸と戯れていた絵師は煙管をすぱりとふかした。
「隣の手習いの先生に飼われてたんだがね。しばらく前に先生が殺されちまって、引き取ったのさ」
「……なんと」
知らず身を乗り出した源三郎に、絵師は続けた。
「夜中に物盗りが入ったらしくて、布団の中で頭から血い流して、冷たくなってた。何か硬いもんでガツンとやったって話だが、下手人はまだ挙がらねえ」
「そいつはお気の毒だったな」
絵師は膝の上の狸を抱え直した。
「お前に話ができりゃ下手人も割れるのになって、こいつ囲んで長屋じゅうで嘆いたもんだ」
「よっぽど慕われてたんだなあ、その先生」
「ああ。みんなに好かれた、いいお人だったよ。俺も絵に詰まると隣に行って、二人でこいつと遊びながら色々話をしたっけ。先生、こいつが仔狸の頃からそりゃあ可愛がってね。それが高じて自分の筆までこいつの毛で作ってたよ。……これだ」
絵師は傍をごそごそやり、一本の細筆を取り出して見せた。確かに色合いといい毛足といい、目の前の狸そっくりである。
「毎日いいモン食わしてるから墨の乗りもいいなんて先生、大自慢でね。……形見にと、狸と筆を一緒にウチに引き取ったある日、こいつがこれを咥えてな、俺に差し出すんだよ。ああ、畜生でも恩は忘れねえんだなって、俺あ」
言葉を切り、ぐすっと鼻をすすった絵師の横で、源三郎はその筆を見、次いで相手の膝上の狸をまじまじと見た。
狸はこちらの目をじっと見上げている。
「……絵師さん。あんた、この筆を使ったのかい」
しばしの間を置いて、源三郎は訊いた。
「ああ、供養代りに、そのとき一度だけ」
「何を描きなすった」
絵師は少し考え込み、煙管を口から離した。
「あの忠臣蔵だ」
源三郎は、絵師の膝の狸に顔を近づけた。
「やい狸公。ご主人の仇討がしてえかい」
ぽかんと口をあけた絵師を尻目に、源三郎はすっと立ち上がった。
「おかげで話の目星がついた。邪魔したな、ありがとうよ」
六
「貞吉に、芳蔵に、弥十だ」
深川の大工、甚五郎棟梁は、傍らに座った三人の若い大工を源三郎へ指してみせた。
「あんたが言った現場にのこらず出入りしてたのは、この三人だがね」
怪訝そうな棟梁へ、源三郎は笑顔を作ってみせた。
「棟梁、ありがとう存じます。……ときにお三方。その現場の、今から言う箇所を修繕したのはどなたかね」
源三郎は三人を見回し、一つ一つ上げた。
小間物屋「島田屋」の、店内の棚。
料理屋「ふくべや」の、鴨居。
貸本屋「丁字屋」の、ひさし。
呉服屋「伊豆屋」の、母屋の柱。
幸兵衛長屋の熊次郎宅の、これも、柱。
お歯黒長屋の大家宅の、天井。
「それから、箇所は知らないが、旗本の山中様の御宅にも普請に入ってるはずだ」
「へえ、俺で」
真ん中の芳蔵が、首をかしげながら名乗った。
源三郎はひと呼吸置き、訊いた。
「芳蔵さん。あんた、神田の善右衛門さんて知ってるかい。手習いの先生で、狸を飼ってなさるんだが」
芳蔵の顔色が、さあっと青くなった。
「し、知らねえ、そんなお人は。生きてるうちに会ったこともねえ」
「ふうん」
源三郎はすっと目を細めた。
「知らねえお人が死人だと、お前さん、どうしてご存知だい」
芳蔵の体が跳ね上がった。傍らの弥十を跳ね飛ばし、廊下に走り出ようとしたところで――
彼の背に体ごと突っ込んだ源三郎が、その腕を後ろにねじり上げた。
「おい、何をしなさる」
慌てて止めに入った他の者を放っておき、源三郎は押さえ込んだ芳蔵に畳み掛けた。
「さっき俺が言った家はな、噂の立版古が化けた家さ。なぜだかみんなどっかに赤いシミがついてて、そこを修繕したのがお前だ。――あの立版古の原画、なにで描いたか教えてやろうか? 殺された先生の筆だとよ」
「か、堪忍してくれ。俺じゃねえ」
「なら、なぜ逃げた」
芳蔵の腕から力が抜けた。
「芳蔵。あの赤いシミがついてた箇所……修繕箇所で使ったゲンノウ(金槌)が、先生殺しの凶器だろう?」
七
「狸の筆の立版古が、先生殺しを暴いたわけかい」
桜貝のような唇から煙管を離し、し乃雪はゆったりと煙を吹いた。
「ああ。とんだ一大事さ」
しゃべりながら、源三郎は出された煎餅をつまんだ。
「化けた立版古にはどれも、赤いシミがついてた。最初は汚れかと気に留めなかったが、手がかりがなくなった辺りで気になった」
禿が持ってきた茶をすすり、源三郎は続けた。
「よくよく思い返してみると、どの家もみんな、その箇所が真新しかった気がしてな。武家屋敷にはさすがに入れなかったが、それでも木の香が匂っていた」
「それで、大工か」
「ああ。深川のあの界隈を受け持ってる棟梁が甚五郎さんだから、当然そこで働いてる奴が関係してるはずだと当たりをつけて……」
「カマをかけたら、案の定」
「その通り。……まあ、狸公から殺しの下手人を挙げるのは半分賭けだったんだが、図に当たって良かった」
源三郎は、し乃雪の差し出した煙管を一口吸い、良くもねえがなと付け足した。
「大工の芳蔵は、博打で借金こさえたんだそうな。あの先生を狙ったのは、人づてに噂を聞いて、自分の町から遠いのと、狸を飼うくらいだから金があるだろうと踏んだらしい」
気乗りしない様子で、源三郎は輪の形に煙を吹いた。
「押し込んだのは夜中だったし、手ぬぐいで顔を隠していた。おまけに先生のほかは狸しかいない家だ。ばれる気遣いはない」
「しかし、その狸が凶器のゲンノウを見ていたわけか」
し乃雪が、にっと笑った。
「恐らくな。飼い主は博学だし、人の出入りが多い家だ。仔狸の頃から飼われていれば、口はきけずとも人の道具を分かって不思議ではなかろうよ」
「人に飼われた狸でも、まじないを使うのだな。自分の毛の筆で描かせた立版古を、八百八町にばら撒かせ、ゲンノウの持ち主を炙り出した、と……。まるで、かちかち山だ」
し乃雪は腕を組んで唸った。
八
けじめにと、源三郎があの絵師の家を訪れたのは、その半月後だった。
死者に香華を手向け、狸の顔も見たかった。もっと早く来るつもりだったが、何せ江戸中をにぎわした事件である。物見高い野次馬にさんざん悩まされているだろう絵師を、落ち着くまでそっとしておきたかった。
「ごめんよ」
部屋の外から声をかけると、ややあって戸ががたぴし開いた。
「やあ、あんたか」
案の定というかげっそりした顔の絵師は、それでも迎え入れてくれた。
* * *
「悪かったな。しばらく騒がせちまったんじゃないかい」
大家と三人して、死者の部屋の前で線香を上げた後で、源三郎は絵師に頭を下げた。
「ちっとがやがやしたが、ま、下手人が挙がったからな。先生には何よりだろうよ」
「ところで、狸公はどうしたね」
源三郎は部屋の中を見通した。あの丸っこい姿はもとより、それらしき物音一つない。
絵師は黙って、机の上を指差した。
その指の先をたどり――源三郎はあっと息を呑んだ。
あの忠臣蔵の立版古、この前見たときは確かに四十七士討ち入りだったはずの場面が、長屋の一部屋になっている。
中にいる紙人形は、総髪の初老の男。
そして、その横にちょこなんと座って彼を見上げる、小さな小さな一匹の狸。
「先生と、あいつさ」
絵師がぼそりと言った。
「賊がとっ捕まった次の朝、起きたらこうなってた。で、あいつはどこにも」
言葉を失った源三郎の横で、絵師は背を丸め、美人画を描きにかかった。
「何にせよ、当分、立版古の仕事は御免だね」
九
帰る道々、源三郎がふっと見ると本屋の前に人だかりがしていた。
寄るつもりなどなかったのだが、店先で騒がしい「狸」の一語が妙に懐かしく、釣り込まれるように店を覗いた。
人々が争うように求めているのは、今日発売の黄表紙である。
隣で、誰かが声高く読み上げていた。
「どれどれ。『立版古の真の版元は手習いの師匠の飼い狸にて、主殺しの下手人を挙げんがためなり。読み書きかなわず名も書けぬ畜生の身にてあっぱれ報恩の事』か」
表紙の題は「綾紙版古無字名仇討(あやしばんこむじなのあだうち)」とあった。
――商売熱心なもんだ。
源三郎は、賑わう人垣からすいと離れた。こんなものを土産にしたところで、狐太夫が喜ばないだろう事は、よく心得ていた。
(了) ▲
第2回海外マンガフェスタ (2013.10.19)
リンゴ(リク内容同じ)
買い食いをしない家だったせいか、リンゴ飴を食べたのは学生になってからだ。
夏祭りの飴細工の屋台にかじりついていたあたしに、こっちなら買ってあげるよと言って彼がくれたのだ。初めて食べると言うと、珍獣を見る目で三回ぐらい聞き返されたけど、あたしがあの形をうまく囓れずに鼻を突っ込んでしまったのを見て彼も腑に落ちたようだ。それでも、薄い飴と水気のあるリンゴをばりばりやるのは確かに美味だし、愉快だった。
好きなリンゴ菓子がもう一つある。簡単なコンポートもどきだ。こちらは冬場に重宝する。
耐熱ガラスの小鉢にリンゴ一個を削ぎ切りに落とし(ついでに芯の回りに残ったのを一足先にかじってしまい)、蓋をしてレンジで五分間チン。だけ。
だけだが、これがいいのだ。
熱々の実は少しの歯応えを残して柔らかく、鉢の底の汁も蜜みたいになる。
彼が遊びに来るたび作って食べさせているけれど、砂糖もないのにずいぶん甘いといつも首をかしげられる。同じやりかたで作ってみても、こうはならないらしい。
種を明かせば、リンゴが美味しいのだ。産地の親戚が、毎年とびきりのを送ってくれる。これでなきゃ駄目だ。
箱で来たから売るほどあるけど内緒にしている。別に、リンゴ飴で赤くなった鼻先を大笑いされた仕返しじゃない。
うちに来るなら、またあげる。
END ▲
カチューシャ/おじさん(リク内容同じ)
好きになった男が実は猫又だったので、両親に会わせた夜の家族会議は荒れに荒れた。
妖怪ったってちゃんとした男の子の格好だし大丈夫よと言う母と、そんな得体の知れん輩を容認できるかという父が真っ向からぶつかった。勿論私は母と並んで一歩も引かずに父とやり合い、弟はさっさと部屋へ引っ込んでしまった。
結局互いに折り合わないまま物別れとなり、気まずい数日が流れたある晩。
カップラーメンを作ろうと一階に降り、居間の前を通りかかった時、中から微かに聞こえる妙な音に気付いた。機械の音のようだが聞き慣れず、首を傾げながらドアを開け……
中にいた父と目が合った。
双方五秒は硬直していたと思う。驚愕の表情で固まる父は私の目を見ていたが、私の視線は父の頭上に釘付けになっていた。
そこに鎮座していたのは間違いなく――状況的には間違いでなければおかしいのだが――猫耳だった。
くたびれた中年男の、それも実父の、ついでに妖怪嫌いの頭にである。
口を開けたままリアクションが取れない私の眼前で、「それ」はゆっくりと動いた。あの機械音。そこでようやく、おぼろげながら事態が飲み込めてきた。最近売り出した、脳波で動くオモチャだ。
それでもかける言葉は見つからず、そっと居間の戸を閉めようとした時、中から半分ひっくり返ったような声がした。
「しゅ、瞬がくれたんだ」
「瞬が?」
弟の名だ。
「あ、ああ。まずは形から入るのがいいとか言って……」
「……ふーん」
瞬め。家族会議をバックレたと思ったらこれを頼んでいたか。くだらないが、まあ悪くない。
「とりあえずさ、来週末あたりもう一回連れてくるから、また会ってくれる?」
「うむ」
父の威厳を取り繕ったような返事にあわせ、間抜けなモーター音と共に両耳が寝た。
* * *
その後我が家で開かれた二度目の食事会で、やはりと言うか猫耳は話題に上った。必死で話題を逸らそうとする父と必死で笑いを殺そうとする彼を横目に見ながら、私と母と弟で父をいじり続けること十分。
父がおもむろに足元から猫耳を取り上げ、重々しく装着した。
しかし、肝心の父の猫耳は死にかけのセミのような音とともに弱弱しく痙攣し、それきり動かなくなった。
電池切れである。練習しすぎたのだ、たぶん。
あからさまに落ち込んだ父の横合いから、弟が何かの箱を突き出した。
脳波で動くシッポ。
ここで限界に達したらしい彼が盛大に吹き出し、猫耳と二本のシッポ(本物)を出してしまった。
その後、母が電池を入れなおした猫耳とシッポを父が着け、全員で記念写真を撮ったのを彼の両親に送った。
数日たって、写真のお礼と共に父へ脳波で動くシッポ(二本目)が届いたのは別の話だ。
END ▲
有田焼(佐賀県)(リク内容同じ)
ふらっと遊びに行った祖母宅の急須が変わっていた。前のは数日前、流しに落として割ってしまったという。
馴染みの急須だった。白地に藍の梅模様で、蓋のつまみは小さな鳥のかたちをしている。家族が揃うたび祖母はそれでお茶を淹れてくれたし、お茶漬けを作るのにも活躍した。
聞けば、亡くなった祖父と九州を旅行した時、気に入って買った有田焼だそうだ。
――蓋は無事だったからああして飾ってるけど、それでもねえ。
祖母はため息をつき、仏壇に目をやった。祖父の写真の下で、くだんの小鳥が所在無げにこちらを見上げている。
* * *
その姿が何となく気にかかり、少々味気ないがネットショップのお世話になった。
翌週、届いた荷物をぶら下げて訪ねた私を、祖母はいつもどおり出迎えてくれたが、中身を見せると声のトーンが一気に弾んだ。
――あら、まあ。ありがとう。そっくりだわねえ。
蓋に小鳥のついた、有田焼の急須だ。「そっくり」というわけでもないが、幸い似たのが手に入った。
祖母はさっそくお茶を淹れ、たまには泊まっていきなさいよと有難い言葉までくれたので、私はそれに甘えることにした。
その夜、夢を見た。祖母が祖父と並んで歩いている。その周りを幾羽もの鳥が飛んでいた。みな体が黒く、羽の先だけ鮮やかに白い。
景色は知らない街だ。が、行ったこともないくせに、九州旅行の光景だというのだけははっきり判った。
* * *
次の朝、目が覚めて苦笑いした。きのう茶飲み話に祖母が旅行のエピソードをずいぶん聞かせてくれたから、夢にまで出たのだ。あの白黒の鳥もアルバムに出てきた。あの地方にしかいないカササギである。
伸びをしながら居間に顔を出すと、祖母が首をかしげながら急須を見せてくれた。
――これ、あなたがやってくれたの? 上手くできてること。
見ると、蓋の小鳥が二羽に増えている。
訳がわからず祖母の顔を見ると、祖母は割ったほうの急須の蓋を見せてくれた。こちらの小鳥は、ない。
――ゆうべ仏壇に並べて置いておいたんだけど、朝になったら、こんな。
祖母の言葉に首をひねりながら、私は夢を思い出していた。カササギは七夕にまつわる鳥と、そういえば聞いたことがあるが。
END ▲
流れる雲(リク内容同じ)
子供たちと遊んだ遊園地内のオープンカフェで、年中組の娘が目ざとく見つけたのはラテアート入りのココアだった。そこそこいい値段である。
が、せっかく来たのだし、そういえば私も本物を見たことはない。やがて運ばれてきた二つのマグカップに浮き上がるライダーとトトロは見事なもので、子供たちと一緒に私まで大はしゃぎしながら写真を撮ったあとは、息子も娘も名残惜しそうにちびちびココアをすすっていた。
私も自分のティーカップを傾け、ようやく一息ついた。秋の空は抜けるように青く、半日遊んだ疲れが溶けていくようだ。見たこともない高さにうろこ雲が敷かれている。オープンテラスの石畳にそっくりだった。
「あれ、お風呂場のタイルみたいだ」
私の視線に気付いたのか、息子が頭の上を指差す。ちょうど似た考えでおかしくなり、ほんとね、と答えると、今度は娘が私にカップを見せてきた。
「ママ、あれね、たぶん神様がこれやってるの」
カップの中には、半分崩れて福笑いみたいになったトトロ。
「そっか、そうかもしれないね」
娘のいかにも可愛らしい発想は、意外に魅力的だった。雲は神様のラテアートだったのだ。
とすれば、その大元の海は……さらに世界は、大きなマグカップなのだ。
待てよ。
そんな話があった気がする。かつて世界は平らで、水をたたえた盆であると信じられていたのだ。
聞くところによれば、最近は泡を盛り上げて立体的な形を作るラテアートもあるとか。それはどういうわけか、巨大な入道雲を連想させた。雲を色々な形に見立てる遊びは世界中どこにでもある。
いや、と打ち消した。残念ながら、実際の地球は丸い。衛星写真だってあるわけだし。
だがさらに脳裏をよぎったのは、ネットで見た立体ラテアートの写真だ。くっつけられた二つのカップをまたぐように、一匹の猫が泡で作られている。
――あの雲たちが、「別のマグカップ」の間を行き来していたとしたら……?
地球の写真はある。宇宙飛行士の証言もある。
だが、伝説というものも大昔からある。
何より、世界の姿を実際に目にした人間は、この世の中で宇宙飛行士だけだ。
馬鹿馬鹿しい。連想ゲームに過ぎない。首を振ったとき息子が呑み残しのカップを倒し、私は慌てて紙ナプキンを取りに走った。
END ▲
洞窟の人間たち(リク内容:光のない洞窟で暮らしていた人たちが生まれて初めて外へ出て、光を見たときの反応を)
ある日、若いワジが息せき切って集会所へ飛び込んできた。
「みんな、聞いてくれ。メは……俺たちの『メ』は、ちゃんと使えるものだったんだ!」
その日以来、彼らの生活は一変した。
メ――彼らの顔に付いている、使い道の分からなかった器官を、使うようになったのだ。
誰もが最初は、ワジの話を疑っていた。ワジといえばのろまで不器用で、頭の回転もあまり早くなかった。つまり、役に立たない人間だったのだ。
村の中での彼のあだ名は「メ」である。先祖代々洞窟の中で生きてきた彼らは光を知らず、従ってメの出番はなかった。
もちろん、ちらちらする幻を感じることはあったし、それがメのせいなのは分かっていた。が、それは触れもせず匂いもなく、しかも誰一人同じ幻は出ない。
つまり「メ(目)」とは、何のためにあるのか分からないものの代名詞だった。
そのメに、あのワジが使い道をもたらした。
匂いも、音も届かないような遠くの物も、メを向ければ分かるという。手探りせずとも、言葉で知らさずとも、メで感じるだけであらかじめ察知できるのだ。
そんな馬鹿なことがあるものか。初めは笑い飛ばした者たちが、一人、また一人と、ワジについていった。
延々歩かされ、もう戻れなくなるのではと恐れ始めた頃、奇妙な現象が起こり始めた。
メの裏にいつもちらちらしていた幻が、ちらつかなくなった。どころか、幻は次第に広がり、メを占領してしまった。
顔の向きを変えると、その分だけ幻も動く。完全に自分の動きを追っているのだ。
その中に、いくつもの小さな幻が動いていた。
「ワジ、どうなってるんだ」
たまりかねて一人が聞いた。
「それは俺たちだ」
笑いながらワジが言った。
「手を伸ばしてみろよ」
おずおず手を伸ばした彼らは、小さな幻――他の仲間たちに触れた。そして同じように触った大きな幻は、彼ら自身がこれまで暮らしていた、洞窟の壁そのものだったのだ。
メをつぶると、それは消えた。が、メを開くと、それは確かに現れた。幻は今や幻でなく、現実としてそこにあった。手探りせずとも、言葉で知らせずとも、メで感じるだけで本当にわかるのだ。
さらに歩くに従って、現実はいよいよはっきり、その姿を表し始めた。彼らはお互いの顔を見、自分自身の体を見、しだいに細かくなる壁のありさまを見た。
やがて洞窟が尽き――壁がすっかりなくなった時、彼らは全てを――色と、形と、距離に溢れかえった「風景」を見た。
噂はたちまち広まり、誰もがメのとりこになった。匂いも音もない物を感じられるとはどういうことだ?
はるか遠くにある物の存在を、居ながらに感じられるというのは?
その場にいる全員が全く同じ幻を――いや、もう幻とは言えないが――感じるというのは?
すぐに村全体が洞窟の出口近くに移され、みなが様々な物を見始めた。
そう。見る、ということが始まったのだ。
色という概念に名前がつけられ、絵が描かれ始めた。さらに言葉に応じて文字が発明され、色々なことを文章で伝えるようになった。
彼らの世界は、飛躍的に広がった。
* * *
問題も起こるようになった。
まず些細なことだが、盗み食いや逢引きができなくなった。
これまで暗闇に隠されていたことが、文字通り明るみにでるようになったのだ。人々は仲間うちで何となく距離をとり、用心するようになった。
同時に、見えない部分には気を使わなくなった。
足元に石が落ちていたとして、気付いた者は避けるが、気づかない者はそれを踏んづけ、怪我をするようになった。これまでは用心し、また仲間同士で教え合ってきたことだ。
「見れば分かる」が合言葉になり、伝言は洞窟の壁に書かれ、品物は声で説明されないまま無造作にやり取りされた。
綺麗な動物の皮や貝殻や石が集められ、さかんにやり取りされ、時には盗まれた。
花の色やら、雲の動きやら、見ることはいくらでもあったので、人々はそれらに夢中になり、語り部の話す物語は忘れられた。
それでも、人々は見ることをやめなかった。暗闇の生活に戻ることはもうできなかったのだ。
* * *
英雄となったワジはある日、洞窟の奥を目指した。
そこはかつて村があったところで、光のある生活に嫌気がさした者たちが戻り、住んでいた。
村が二つに割れることを恐れ――本当は、自分の勢力が及ばなくなることを恐れ――ワジは彼らを説得して連れ戻そうとしたのだった。
だが久しぶりに入る洞窟の中は予想以上に暗く、入り組んでおり、ワジをたじろがせた。
信じられなかった。自分も昔、こんなところに住んでいたなど。
もうそろそろ着くはずだが。いや、そもそもこちらでよかったのか?
じわじわ膨らんできた不安にワジが脅かされ始めた時、向こうからひたひたと足音が聞こえてきた。
「誰だ」
引きつった声で叫ぶと、静かな声が返ってきた。
「その声はワジだね。私だ、語り部だよ」
「爺さんか」
ワジは胸をなで下ろした。
「珍しいね、お前がくるなんて。まあいい、ついておいで」
言うなり老人はすたすた歩き出し、足音はすぐに遠くなった。
「ま、待ってくれ。歩き方を忘れてしまった」
ワジは情けない声を出した。英雄の誇りなどと言っている場合ではない。
「そうかい。じゃ、手をお出し。今どの辺りにいるかね」
ワジは空中に手を出し、こっち、こっち、と言い続けた。暗闇の中で場所を教える、昔通りのやり方だ。
すぐに人間の指先が触れ、ワジの手を握った。とてつもない安堵感。
「この辺りは平らだからね。ま、ゆっくりお歩き」
語り部の老人に従い、ワジは曲がりくねった道をひたすら歩いた。光がないというのに老人はすたすた進み、右にあれがある、足元がこうなっているとワジに教え続けた。
やがて老人が足を止め、声を出した。
「語り部が戻った。客人が一緒だ」
そして、小声でワジに囁いた。
「さ、集会所に着いたぞ。入る時の作法は覚えているな?」
ワジは軽く息を吸い、声をあげた。
「ワジが戻った」
闇のそこここから軽いどよめき。どうやら十人は居そうだ。
* * *
意外にもワジは歓迎された。
あちこちから名乗りが上がり、食べ物の鉢が回されてきた。見えないくせに、指で触り、口に入れればすぐに何だかわかるのだ。コケ菓子も、コウモリの肉も、ずいぶん懐かしい味だった。
その間にも活発に声が飛んでいた。外の者たちの消息を聞く声、最近の暮らしを語る声。合間合間に誰かが身動きするたび、いま台所へ行くよ、だの、この辺りを通るよ、だの、教え合う声が流れる。暗闇の中は無ではなく、音や匂いが満ち溢れていた。
それらがひと段落ついたころ、誰からともなく語り部に声がかかった。
そして、語り部がゆったりと物語を語り始めた。
外の世界では退屈で仕方なかったそれを、ワジは黙って聞いた。全身を耳にして誰かの話を聴くのは、そういえば洞窟を出て以来、初めてだ。
「俺は間違っていただろうか」
やがて、ワジはぼそりと言った。
「俺は目の使い方を見つけた。それで、ようやくみんなの役に立てたと思っていたんだ」
皆が静まる気配。
「しかし、外の世界ではみんな、目に夢中だ。見えるものしか当てにせず、それが当たり前になってしまった」
と、ワジの横から鈴の音がした。
「ワジ、イリがお前と話したいそうだ」
「イリ?」
意外な名前だった。イリは口の利けない娘で、真っ先に外に移住して、文字を発明したのだ。
「お前、洞窟の中ではあれだけ不自由していたじゃないか」
首をかしげるワジの手を、細い指が握った。イリだ。すぐに、その指がワジの手の甲を叩き始めた。声が出せないイリの信号だ。
『ワジ。私は外の世界が好きよ。喋れなくても、みんな私の姿が見えるし、文字で話ができるから』
「なのに、戻ったのか」
『だから、戻ったの。ここの人たち、目で感じられないのよ』
ワジはどきりとした。そういえばそうだった。皆ができた「見る」ということを、どうしてもできないと言う者たちがいたのだ。
『外の世界じゃ、この人たち、私と同じになってしまうわ』
「それは……考えなかったな」
「イリは自分で戻ってきたのだ。貝殻の鈴をいくつも身につけて。ちょうどお前とわしが会った、真っ暗な辺りまで」
「…………」
「本当を言うとな、ワジ。皆が洞窟にいた頃、わしらも正直、イリを軽く見ておった。暗闇を忘れたお前たちを、わしらは笑ってはいけないな」
まったくの沈黙。
やがて、貝殻の鈴が鳴った。
『ねえ。私、語り部のお話、大好きなの。外の世界で全部、文字に残すつもりよ。外の世界のことも覚えて、ここで語り部に話してもらうの』
「村を二つに分けておくのか」
『いいえ。二つでひとつの村よ。私たち、二つの世界を持てるの。あなたのおかげよ、ワジ』
「……俺は、村を無理やり外の世界に移そうとしただけだ」
「だが、多くの者が従った。イリも文字を手に入れた。お前を役立たずと言ったのは取り消さねばならん」
「…………」
「ワジ。時々でいい、皆をこちらへ連れて来てくれ。そしてたまには、わしらも外へ連れて行っておくれ。イリと二人で、この村を今の形のまま、ひとつに繋いでおいてほしい」
* * *
その村がどこにあったのか、正確な記録は残っていない。
だが、手すりや鎖を頼りに、真っ暗な洞窟へ降りて行く習慣は世界各地にある。そのうちの一つがこうした村でなかったとは、決して言えないのだ。
END ▲
C84 (2013.8.11)
薔薇と菫 (リク内容:薔薇と菫)
由来は知らないが、彼女の商業高校とはグラウンドをはさんで敷地が繋がっていた。
より正確には、商業高校、私の普通科高校の間に大きなグラウンドがあり、そのほぼ中央を二つの体育館、一つのプールがほぼ真っ二つに仕切っていた。グラウンドの一部は繋がっており、プールは共用である。
そんな状態にもかかわらず、二校のあいだで生徒の行き来はさほどなかった。近すぎることが問題なのかもしれない。
それでも、中学校時代から仲がよかった私は、放課後は彼女の高校へ時々顔を出した。つるんでいて楽しいというのもあったが、他校の友達を訪ねるというシチュエーションそのものがまず、何ともいい響きだった。
あるときなど彼女は、(なぜか)部室にあったという商業高校の制服を貸してくれた。商業のバラの徽章をくっつけて高校内を闊歩しながら、私たちはスパイか何かのような気分でくすくす笑ったものだった。
その割に、彼女が私の高校に来た記憶はない。聞けば、私も知っている同級のいくたりかとあまり仲がよくなかったのだという。
――それにさ、あんたんとこ頭いいし。スミレの花っていえば有名じゃん?
彼女はそんなことを時々漏らしていた。スミレは、進学校のはしくれに属している私の高校の校章である。要は地方によくある偏見がひびいているのであって、実質的には彼女と私の高校の学力は大差ないのだ。
私はどちらかと言えば、三年かけて実用的な専門技能を叩き込む商業高校や工業高校のほうに憧れていた。商業にもぐりこんでいたのは、そんな理由もある。
* * *
文芸部だった彼女が、学祭用の合同誌を作らないかと言って来たのは三年の春である。
前年の商業祭。部誌の販売所だった文芸部室の店番をしていた彼女と、例のごとく入り浸っていた私とで、一緒に何か書けたら楽しいだろうねえと話し合っていたのだ。
発刊は一号限り、同人誌一冊出すのとほぼ同じ要領だ。「通常の部誌にも原稿を出す」「合同誌は彼女(と私)が自力で作る」を条件に出し、部長の子から文芸部で売る許可をもらったという。
その後、夏休みをまるまる使って、私たちは大はしゃぎでミッションに取り組んだ。二人とも詩やら短編を何本か書き、両方の友人も何人か寄稿してくれた。
とどめに、私と彼女二人して、とんちきなリレー小説を書いた。
主人公はバラの国の女魔導師とスミレの国の王室親衛隊員。魔族の侵攻に脅かされる二国に育った二人はともに、両国の国境上の聖なる泉に封印された宝玉を取ってくる密命を帯びていた。両国間に広がる平野を越え、国境の検問を突破し、泉にたどり着いた二人は、宝玉をめぐって一旦は争う。しかし、それを奪おうと襲来した魔族に対抗して手を結び、最終的には魔族を打ち倒して大団円となる。
まあ今読み返すと床を転がりたくなる出来ばえだが、それでも私たちの「特別号」は無事にその年の学祭に間に合った。寄稿してくれた私の側の友人が普通科高校の文芸部だったため、本は両方の学校の出店に並んだ。文芸部間の交流ルートに乗って、他校にも少し回してもらったと思う。
* * *
そんなことを思い出したのは、今も付き合っていて半年ぶりに会った彼女の口から「現役の後輩たちがアレの続きを出したがっているらしい」という話を聞いたからだ。
正直爆弾発言だった。大人になってしまうと、あれはやはり相当気恥ずかしいシロモノである。白状すれば、全冊回収して燃やしたいねえなどと彼女とネタにしていたくらいなのだ。
だが、仮にそんなことができたとしても、部室保存分だけは(倫理的に)どうしようもない。今在学中の後輩たちが読んだのもそれだという。
「いやね、あたしも一回は断ろうと思ったの。でもその子たち、両方の学校で何人か友達同士だっていうのよね。で、あんたに相談してみるって言っちゃった」
こう言われては、首を縦に振るしかない。
あの本を思い出して背中が痒くなるのは変わらない。が、あの妙な敷地の二校、そのあいだの平野を越えてつきあっている今の誰かに繋がるなら、それはそれで浮かばれるというものだ。
「でさ。あの裏表紙のマーク。あれも使いたいんだって」
裏表紙のマーク。あの合同本のために、美術部の子に作ってもらったシンボルだ。リレー小説でもちゃっかり使い回し、ラストで魔族を封印するために主人公たちが使う魔法陣となったのだ。
言うまでもなく、バラとスミレが合わさった文様である。
END ▲
浦島さんと亀(リク内容:浦島太郎。嵐の後漁に出たが三日間魚が取れず、同じ亀が何回も捕まる。その時の心情を)
同じ亀がもう五回も引っかかってきたので、浦島太郎は手を止めて亀をじっと見つめた。
三日前にようやく嵐が去り、漁に出られたというのに、昨日一昨日はいくら頑張ってもごみしか取れなかった。
いい加減腹も減るし、やる気も無くなる。だが、さぼって何にありつけるわけでもない。老いた両親ともども飢え死にする訳にはいかなかった。
だから、今朝一番で大きな亀がとれた時、太郎は飛び上がらんばかりに喜んだ。しかも、見たこともない五色のこうらを持っている。市で売れば、目玉が飛び出るほどの値がつくだろう。
しかしすぐに、待てよと思った。この亀を売れば確かに自分は儲かるだろう。けれど、その後きっと、浜にはこいつ目当ての漁師が押し寄せてくる。こいつの仲間はすぐに獲り尽くされ、皆いなくなってしまうはずだ。
「美しいこうらなど持っているばかりに、それでは気の毒だ。どこへでも逃げるがいい」
太郎は亀を放してやり、また漁を続けた。
だが、しばらくして網に手応えがあったと思うと、かかっていたのはあの亀だった。
少しばかり悪い心が起こった。さっき逃したあと、もったいないことをしたと、本当は少し後悔していたのだ。しかし太郎は亀を放してやることにした。
「一度逃がしたものを捕まえては、道理が通らない。私はこの亀を逃がしてやることにしよう」
なのに、亀はまた網にかかった。今度は、太郎は腹を立てた。もしかしてこいつは船の周りで待ち受けていて、近くに来る魚をみな食べてしまっているのではないかと思ったのだ。
それでも、太郎は亀を放してやった。
「腹が減っているのは私も同じだ。こいつばかり責めても仕方あるまい」
亀がまた戻ってきたので、太郎は考えこんでしまった。一体こいつは、何か私に言いたいことでもあるのか。もしや、私のために、市場の売り物になってやろうと思っているのではあるまいか?
いや、と考えた。進んでとりこになりたがる生き物などこの世にはいないのだ。
「鶴は千年、亀は万年というぞ。お前は今、何歳になるのだ。ここで命を無駄にせず、万年生きるがいいではないか」
そして五回目、亀はまた太郎の網にかかった。
こうなってくると、亀がなにやら可愛く思えてくる。人間でもなし、まさか知恵があるとも思えないが、太郎は亀に話しかけた。
「おい、お前に心があるなら聞くがよい。私は漁師だから、魚を取らねばならぬ。しかし、お前が私といたいなら、邪魔をしなければ好きにしていいぞ」
太郎は亀を水に降ろしてやり、漁を続けた。あいつ、もう一度戻ってくるかな。今度は少し楽しみだった。
END ▲
C83 (2012.12.31)
河童と娘(リク内容:河童)
過疎化だのプールの普及だので、昨今は川遊びをする子供もずいぶん減った。
人間を水に引っ張り込んでなんぼの身には商売上がったりである。だから、暑い盛りの三ヶ月間を川底で待ちぼうけた九月のある日、ついに水面を泳ぐ小さな影を目にした河童は(水中にも関わらず)躍り上がった。早速その足をひっ掴もうと両腕で水をぐんと掻いた。
近づけない。
どういう訳か、頑張っても頑張っても相手に追いつけないのだ。
水中で人間に遅れをとるなど、仲間に知れたら笑い者どころか破門沙汰である。河童は数十年ぶりに手足の先まで力を入れ、鼻息荒く水をけり続けた。が、もう少しで捕まえられると思った次の瞬間、いつも相手はするりと先へ逃げてしまう。
完全に遊ばれている。妖怪のくせに冷や汗を出しながら泳いで泳いで泳ぎまくった。
だがそんな努力も全てむなしく、ついに精魂尽きた河童は泳ぐのをやめ、水に漂い始めた。
河童の川流れもいいとこだな。ぼんやり考えた彼の目の前で、相手がふっと動きを緩め、身を翻した。
ばあっと水に広がる長い髪。
見間違いでなければ、夕陽のような黄金色をしている。
こちらに笑いかける顔。若い娘だ。見たこともない顔立ちなのにあでやかだ。ほっそりと伸びやかな体と、それに続く足――
二本でなく、一つにまとまった両の足。なぜこんなところで着物など着ているのだろうと思った。が、見慣れた人間の服にしては、裾先が大きく広がっている。
まるで魚の尾びれのように。
その時、例えようもなく美しい音がした。音ではない。歌だ。娘の唇が動いている。こんな水の中で。
待て、なんと言っている? 河童は思わず身を乗り出した。が、言葉なのか音なのかすら曖昧なその歌は、たちまちその心をとりこにし、どこかへ飛ばし去ってしまった。
い あ ら。
途方もなく心地よい夢に溶けていく直前、河童は辛うじてそれだけを聞き取った。
やがて川底の岩に頭をぶつけて彼が我に返ったとき、娘は影も形もなかった。
END ▲
※「イアラ」はブラジルの人魚。ブラジル出身の方からのリクエストでした。
飴玉(リク内容:S気味の青年と、幼女)
「どーっちだ」
握った両手を、青年は前に出してみせる。
ええと、ええと。
背伸びして上から見たり、下から覗き込んだり、どちらかの手をちょっと突ついてみたり。少女はくるくる動きながら懸命に考え込む風である。
「じゃ、こっち!」
腹が決まったと見え、少女が右手にぽんと触った。驚いたそぶりをしてやると、その顔が満面の笑みに変わる。
そら来た。
彼は思わせぶりに両手を動かし……ぱっと開いてみせた。
左の手にはチョコレートの粒、右は空っぽ。
「はい残念でしたァ、五連敗」
たちまちしおれてしまった少女の両頬を右手の指でちょいちょい挟んでやる。その間に銀紙を左手だけで器用に破き、中身のチョコを自分の口にぽいと放り込んだ。
横目で少女の恨めしそうな顔を眺めながら、わざと旨そうにに口をもぐもぐ動かしてみせる。全くこいつと来たらどうしてこうお約束に忠実なんだろう。
もういい加減気づいてもいい頃だ。選ばせているあいだ両手は空、そのかわり両袖に同じ物を仕込んでおき、相手が選んだのと反対の手にだけ握り込む。使い古されたトリックである。
ま、こいつの頭じゃ当分無理だな。
そこまで考えてふと見ると、少女の顔が変なぐあいに歪んでいた。目は真っすぐ下を睨んでいるし、きゅっと結ばれた唇は微かに震えている。
――おっとっと。
「な、もう一回やってみるか? 当てたら五個やるよ」
さんざオモチャにした手前アメも与えておくことにし、青年は言ってやった。長く楽しむコツはこの匙加減である。
「ほんと?」
これも予想通り、少女にぱあっと笑顔が戻る。ちょろい。実にちょろい。
このまま勝てば鬼の首でも取ったようになるだろうが、別にいい。どうせ次にいくらでもからかってやれる。
「その代わり、お前も何かちょっといい物、賭けろよな」
「そう? んーと、そしたら……」
小首を傾げてちょっと考え、少女は首から下げていたおもちゃの財布を開けた。
「はい、これ」
出てきたのは真っ青なおはじき。青年にはたわいない物にしか見えないが、彼女は大事そうに掌に乗せて彼に差し出した。
「後で返してね、それ一個しかないの」
「はいよ」
一個じゃ、仕込んだ袖と逆の手を選ばれる可能性もあるな。
ガラスの粒を無造作につまみ上げながら、青年は頭の中で予行演習した。目くらましは少々高度になるが、まあ決して難しくはない。ぱっと手を握る動作でおはじきを左袖に滑らせ、青年は両手をさし出した。
「さあ、どっちだ」
少女は目を皿のようにして両の拳を睨んだ。どっちの手が膨らんでいるか、隙間からガラスの青色が見えやしないか、そんなことでも考えているのだろう。
「こっち!」
やっと選んだ手はさっきと同じ右手。となると、おはじきを左袖から右手の中へやるわけだ。
「それじゃ、見てろよ」
チャンスは一瞬。両手首をさっと返した隙に左袖を軽く振り――
かすかな違和感。何だ、今の。心中で首を傾げながら両手をぱっと開く。
あ、と少女の小さな叫び。
両手はどちらも空っぽだった。
「もう、また意地悪したあ」
少女が頬をぷっと膨らます。
だが当の彼は愉快どころではなかった。袖から移すあの一瞬、肝心おはじきをどこかへやってしまったのだ。
「ねえ、今のズルだよ。もう一回やってよ」
「何だよ、ご不満?」
装った軽口の語尾が震えた。落ちた音はしなかったから、きっと自分の服のどこかにまだある。
「不満だよお。ねえ、あたしのおはじき、どこ?」
ほら、来た。どうする。
「えーと、ちょっと待ってな」
意地悪で押し通すことにし、素知らぬ顔で袖を探った。ない。
逆の袖。別に仕込んだハンカチまで全部出した。こちらにもない。上着のポケットの隠しからトランプの束、ズボンの裾から火のついたマッチ、襟元からバラの造花、探すそばから色々なものが飛び出し、床に山を作っていく。
が、彼女がそれに気を取られたのも一時だけで、あとは不安そうな目がじっと彼の動きを追っている。
いまいましいガラス玉。あんなちっぽけな物が出てこないばっかりに。
冷や汗混じりで視線をやると、涙の盛り上がった目とぶつかった。慌ててもう一度探し直す。おもちゃの指輪。腹話術の人形。しまいには生きた鳩まで出てきたが、肝心のものは消えたきりだ。
さあどうする、色男。
万策尽きて頭を抱えた時。
「あっ」
少女が声を立て、彼の左袖に指を突っ込んだ。
思わず顔を上げると――
なんと、小さな指先に真っ青な色。
すると何だ、最初に仕込んだあの場所から、おはじきは動いていなかったのか。
その上、自分は探し損ねたのだ。この自分が。
がっくり肩を落とした彼の目の先には、空しく散らかった仕掛けの山。このちびを困らす為に仕込んできたのに、全部また一から考え直しだ。
で、こんだけあっても、あんなおはじき一個に勝てないなんて。
少女は宝物を握りしめてくるくる跳ね回っている。さっき泣いたカラスが現金なものだ。嫌味すら出ない。
深々とため息をついた彼の顔を、少女がのぞき込んだ。
「ねえ、チョコちょうだい。五個」
「あん?」
「約束したでしょ、あたしが見つけたんだよ」
「あー、はいはい」
返す言葉を探す気にもならず、彼はチョコレートを五粒、少女に突き出した。もうどうにでもなれ、だ。
と、そのうちの一つを、少女がついと差し出した。
「一個、あげる。食べる?」
にこっと幼い笑顔。
考える前に手が出て、受け取っていた。
――はい残念でしたァ、努力賞。
もう一人の自分の高笑いがどこかから聞こえた。なんだかんだ言って結局、このちび助のために動き回ってるのは俺の方だ。
どっちが上か分かりゃしない。
いや、分かってる。
青年はチョコをがりがり噛んでやった。甘ったるいだけの味が嫌に心地いいのは間違いなく、癪に障るが間違いなく、あの笑顔のせいだ。
END ▲
嘘つき閻魔(リク内容:おとんと息子)
正直、親父は好きでもなかった。
記憶にあるのはくたびれきって萎れた姿。幼い頃から今まで、その印象はほぼ変わらない。
仕事帰りは大概深夜で、小さい頃など平日に顔を合わせることはまずなかった。たまに早く帰ってきた日に成績を聞かれたりしたが、どうもピントの合わない会話が二言三言続くきりだった。
家族で遊びに行った思い出もあるにはあるが、俺や弟たちとはしゃいでいたのはお袋の方で、肝心の親父の印象はやはり薄い。
友人たちの話を聞いていると、父親と一緒にゲームをやるとか、自転車のパンク修理のやり方を教わったとか、泊まりがけで山に登ったとか、そんなエピソードが折々出てくる。そうした父親たちの姿は羨ましいというより、本やテレビの世界のように非現実的だった。
***
一度だけ怒鳴られたことがある。高校二年の夏休みだ。
中学時代から付き合っていたグループで、中の一人が煙草を覚え、それがずるずると広まった。みな特段スレてもいず、問題を抱えていた訳でもない。あの年頃によくある、恐い物見たさの好奇心だった。
その空気に負けたある日、俺もついに友人の家で一本もらった。一口で胸がぼわっとなり、洗面所で幾度も痰を吐いて笑われた。旨くも何ともなかったが、吸ったことには違いない。一山越えたような満足感があったし、他の仲間に追いつけた安堵も確かに覚えた。
が、お粗末にもヤニの臭いをぷんぷんさせて帰宅し、珍しく早終いだった親父に一瞬でばれた。ちょっとそこへ座れと言われ、これまた何年か振りの説教が始まった。
口達者なお袋と違い空気のような親父相手と踏んで、吸ってないの一点張りで押し通すつもりだったが敵は意外に手強かった。前述の臭いの事を突っ込まれてたちまち形勢不利に陥った俺に、あの要領を得ない口調で親父は煙草の害をぼそぼそ説いた。奇襲からの正論に反撃もままならず、俺の苛々が頂点に達したとき、親父がついに決定的な質問をぽろりとこぼした。
――いつもの連中から教わったのか。
その一言に俺は切れた。
何だよ「連中」って。あいつらの事何も分かってないくせに。だいたい俺の事だって、あいつらの方が親父なんかよりよっぽど知ってるよ。
後で思えば窮鼠の逆ギレだが、そのときの俺にはそれこそが正義だった。たまった鬱憤全部を投げつけた勢いそのまま、椅子を蹴って立ち上がろうとしたときだ。
「そういう問題じゃないッ」
突如降ってきた大音声が、俺を椅子に叩き戻した。
予想だにしなかった猛反撃。完全に呑まれた俺の前で親父もそれきり絶句し、だが顔は真正面から息子を睨んでいた。
無言の見合い。
――とにかく、駄目な物は駄目だ。誰でも駄目なんだ。
やっとそれだけ言い、親父はのろのろと居間のドアから消えていった。残された俺はしばらく、抜け殻同然で座り込んでいたと思う。
***
その後、他の友人たちもそれぞれ御用となり、俺たちの盗み煙草ブームは煙と消えた。みな何事もなかったように大学へ進み、俺は首都圏にあるマンモス校の歴史学科を選んだ。
一人暮らしもようやく板についてきた秋口、教授が校外実習先に指定したのは鎌倉だった。日曜の半日かけて主要な寺院を見学する、この講義の恒例行事だ。
北鎌倉駅から出発して(「いざ鎌倉」という教授のせりふも毎年恒例らしい)、遠足気分でいくつかのお寺を巡り、建長寺の境内で弁当を食べた後に訪れたのが向かいの円応寺だった。
閻魔堂として名高い寺だそうだ。だが、狭い石段を二十段ばかり上って小振りな門をくぐり、ちょっと行った先に料金所、そして本堂。そればかりで、総勢二十五人の一行では若干窮屈に思えたほどだ。建長寺派の総本山とあって大きさも賑わいも桁違いの建長寺と比べようもなく、円応寺は地味だった。
それでも、本堂に足を踏み入れて真正面にそびえる閻魔像は圧巻だった。口をかっと大きく開き、大きな両目で参拝者を睨みつける様はさすが地獄の王で、居合わせた何人かが息を呑むのが分かった。
鎌倉時代の仏師運慶が地獄に行く夢を見た時、夢の中で会った姿を元に彫ったという伝承があり、等々。傍らの教授の話を聞き流しながら、俺は閻魔像の手前の解説文に目を落とした。
ワープロで打ったらしい三枚の解説文。最初の一枚は閻魔大王の簡単な説明が載せられている。
『……「閻魔大王」は冥界の最高の王、総指令官です。それまでの「四王」の取り調べを記録した「閻魔帳」の他「倶生神」「人頭杖」「浄頗梨の鏡」によって亡者の生前の「行い」を取り調べ……』
教授の話と大差ない中身だ。気にも留まらず、何となく二枚目に目を移す。
とたん、あらゆる音が消えた。
『閻魔大王の罪
「閻魔大王」は亡者の生前の「行い」を取り調べます。「罪」ある者は地獄に落とし「苦しみ」を与えます。亡者に苦しみを与える事は「閻魔大王」の罪となります。
閻魔大王はその罪故、日に三度、大王の前に大銅钁(だいどうかく)が忽然と現れます。すると、それまで従っていた獄卒や亡者達が大王を捕らえ、熱く焼けた鉄板の上に伏せさせます。獄卒や亡者達は鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじ開けドロドロに溶けた銅を口中に注ぎます。大王の舌や唇は元より、喉から腸に至るまでただれきってしまいます。その苦しみは亡者が地獄で受けるどの様な苦しみよりも苦しいと言われています。』
何だって?
エンマさまの話なら知っている。悪い事をした人間を地獄に落とす、誰より恐い裁判官だ。嘘をついたら舌を引っこ抜かれるだの何だの、親から脅されずに育った奴はきっといない。
なのに誰より重い罰を受けてるのが、その閻魔大王?
どうしてか頭がくらくらした。三枚目の解説文に目を飛ばす。
『閻魔大王の願い
閻魔大王が全ての亡者を「天上界」に送り、亡者に苦しみを与える事がなければ、大王自身も日に三度の苦しみを得る事はありません。その事は大王自身もよく分かっています。しかし亡者が行った生前の「悪事」を知ってしまうと、どうしても許す事が出来ないのです。その為多くの亡者を地獄に落とし苦しみを与えてしまいます。是は閻魔大王の業(ごう)であり逃れる事はできません。
「閻魔大王の願い」は全ての人々が現世に於いて「悪事」を成さず「良い行い」だけを行う事です。全ての人々が「悪事」を行わなければ、閻魔大王も亡者を地獄に落とさずにすみます。「閻魔大王」も日に三度の苦しみを味わう事はありません。是が閻魔大王の願いです。』
視線が跳ね上がった。こちらを睨み下ろす巨大な顔。目と目がかち合い、俺は確かに聴いた。こらあっと腹の底からどやしつけるその大声。
罪人を裁く顔ではない。俺は知っている。叱る顔なのだ。いくら言っても聞こうとしない、しょうもない子供たちを。
いきがって煙草なんかに手を出したガキを。
……亡者が行った生前の「悪事」を知ってしまうと、どうしても許す事が出来ないのです……
あの夜までの親父は俺にとって、いるのかいないのか分からないような人間だった。親父だってきっと分からずにいたのだろう。ろくに構ってやれない息子とどう付き合ったらいいのか。
なのに、人生でたった一度俺を怒鳴ったあの時、親父はその垣根を死に物狂いで飛び越えたのだ。好かれようとか、うまくやろうとか、そんな体裁を全部放り捨てて。
――そういう問題じゃない。駄目な物は誰でも駄目なんだ。
エンマさまの話なら知っている。誰より恐い裁判官だ。
だから面白いんじゃないか、じごくのそうべえとか、えんまのはいしゃとか、無敵の閻魔大王がしてやられる物語は。
聞いたことがない。少なくとも今まで読んだどんな本の中にも、そんな話は出ていなかった。
叱る奴が誰より痛いなんて。
それでも叱るなんて。
……獄卒や亡者達は鉄の鉤(かぎ)で大王の口をこじ開けドロドロに溶けた銅を口中に注ぎます……
あんたこそ世界一の大嘘つきじゃないか。舌を抜くだの、地獄に落とすだの、恐そうな文句ばかり並べるくせに、自分の深手は隠したきりで。
親父、あの時俺は、あんたにどんな鉛を呑ませたんだ?
周りで人が動く気配。我に返ると、他のメンバーが出口に集まっていた。
その流れに続きながら、ポケットの携帯を掴んでいた。電話か、メールか、そもそも自分が何を言いたいのかさえ分からなかった。
だが、アドレス帳に登録があるはずだった。家を出てからこっち、見返したためしもないデータだけれども。
石段を下りながら、なめらかな四角い塊を手の中で転がした。その先に親父がいる。
END ▲
※閻魔像の解説は本物(許可を頂いて手書きで写しました)。おどかされるより個人的にはよほど効いた。