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文字書きさんに100のお題 075-100

挑戦中。配布元:Project SIGN[ef]F(閉鎖)

目次

  • ◀︎051-075
  • 076:影法師
  • 077:欠けた左手
  • 078:鬼ごっこ
  • 079:INSOMNIA
  • 080:ベルリンの壁
  • 081:ハイヒール
  • 082:プラスチック爆弾
  • 083:雨垂れ
  • 084:鼻緒
  • 085:コンビニおにぎり
  • 086:肩越し
  • 087:コヨーテ
  • 088:髪結の亭主
  • 089:マニキュア
  • 090:イトーヨーカドー
  • 091:サイレン
  • 092:マヨヒガ
  • 093:Stand by me
  • 094:釦(ぼたん)
  • 095:ビートルズ
  • 096:溺れる魚
  • 097:アスファルト
  • 098:墓碑銘
  • 099:ラッカー
  • 100:貴方というひと

076:影法師

 人類が滅んでなお、電子機器は予備電源が落ちるまでのしばらくを生き延びていた。かくて無人となったウェブの広野の一隅、Botたちのツイートと会話が連綿と続くツイッター。

END ▲

077:欠けた左手

 左手をポケットに突っ込んだまま暮らし続けて半年経つ。
 かつて、僕のその手は通りですれ違う人々の懐から財布を抜き、ポケットからモバイルを抜き、バッグから音楽プレイヤーを抜いていた。誇張でなく、それだけで生きていけたのだ。大都市のど真ん中とあって観光客も多く、獲物には事欠かなかった。
 あの日も新興国から来たと思しき小柄な旅行客のバックパックにそっと左手を入れた。指先が財布らしい塊に触れたと感じるや、すっと身を離してその場を去った。

 物陰で確かめると、左手が無かった。

 手首から先、ちょうどバックパックに突っ込んだあたりがそっくり消え失せていたのだ。
 切り落とされたわけではない。境界は不可思議にぼんやりと霞み、そこから先を右手で触ろうとしても空を切るばかり。明らかに左手は、ここにはない。
 なのに感触があるのだ。繋がっていないはずの左手が、まだ財布を握っている感触が。
 しかし僕に分かるのはそこまでで、左手をいくら動かそうと試みても感触は変わらない。つまりは財布を持ったままぴくりともせず、バックパックの荷物に挟まっているらしかった。
 そこまで分かって、慌てて路地へ出た。自分がスリである現実などかなぐり捨て、血眼であの旅行客を探し回ったが、相手はとうに人混みへ消え、それ以来一度も見ない。

 * * *

 話にはまだおまけがある。バックパックと共に去った僕の左手はどうやら世界を転々としているらしい。
 感触でわかるのだ。
 やたら暑い(または熱い)場所にいるのか、手の甲をじりじり炙る熱を伝えてくることもあった。あるいは耐え難い冷たさを伝えてくることもあった。ちりつくような不快な痛みも、ねばねばした物を掴まされ続ける感触も。あるいは全く無味乾燥な状況で、何日も放置され続けたこともある。
 最初は毎朝目が覚めるたび、今日はどんな目に遭わされるのかと憂鬱になった。無論痛みで起こされたこともあるし、考えすぎて発狂しかけたこともある。
 人に話したことはない。堅気の相手にはもちろん、同業者にも。言えるわけがないではないか、スリが手をスリ取られたなど。
 だが最近はそんな状況にも慣れたか、次第に淡々とした日常が戻ってきた。残った右手でも仕事はできるから、問題はないといえばないのだ。
 ただ一つ気になるのは、街中でコートのポケットに手を突っ込んでいる人間がどうも増えたように思えることだ。このところぐっと寒くなってきたから、きっとそのせいなのだろうが。

END ▲

078:鬼ごっこ

 自らの能力に自信を持てない亀を勇気付けるべく、兎は一計を案じた。かくて行われた出来レース、その結果を通りすがりのギリシア人が記録したが、それは彼の大きな事実誤認を含んだまま世界に流布された。爾来、兎は真実を広め一族の汚名を雪ぐべくひたすら子孫を殖やし、亀はいつか恩人の末裔たちが自分を打ち負かしてくれる日を望みつつ永い命を繋いでいる。

END ▲

079:INSOMNIA

 もうずっと眠れずにいる。

 じいっと横になって、目を閉じる。そのままいつまでもそうしている。
 しかし、頭はおかしいほどに冴え渡り、長い長い時が過ぎる。
 そして、いつしか夜があける。

 睡眠薬だのアルコールだの。手当たり次第に試した。
 昼間、死ぬほど走ったこともあった。
 だが、待っているのはいつも、長い夜。

 眠れない。
 いつまで……?

 ふと、涙が流れた。

 * * *

 ふと、涙が流れた。

「……あ、ねえ、泣いてるよ」
 ベッドの脇で、彼女はつぶやいた。
「え…… あ、本当だ」
「何の夢、見てるんだろうね」
「さあ、な」

「いつになったら、起きるのかな」
「……止せよ」
「あのバイク事故……」
「止せったら」

 沈黙。


 目覚められない。
 いつまで……?

END ▲

080:ベルリンの壁

 牢があった。
 夜の長い国で、冬は人を押し固めるような寒さだったが、牢はあたたかだった。羊毛を分厚く貼った石壁の内に、囚人たちは日々を過ごした。
 国の王が無慈悲だったので、牢は逆らって捕らえられた者たちでいっぱいだった。看守たちは囚人のために日々ジャガイモと肉と野菜を茹で、晴れた日は外でボール遊びをさせ、夜は襲撃者の無いようがっちりと鍵をかけた。そして王の役人たちに、囚人はひとりも逃げていないと告げ続けた。囚人たちもそれをよく知り、看守の前では決して外とやり取りしなかった。
 夜も昼もなく真っ暗な季節も深まったある日から、囚人たちの夕食の皿に赤い実が乗る。看守たちが牢の庭から摘んだナナカマドの実で、囚人たちは十二月に入ったことを知る。
 クリスマスの夜、皿にはヒイラギの葉と実が添えられ、冷やしたクリームの塊がつく。看守たちは、囚人の飯は寒さで冷え切っていると報告する。
 晩餐のあと、石の廊下には看守たちの静かな合唱がこだまする。Adeste Fideles。囚人たちは物音も立てないので、今年入った看守のテノールは独り言のようだ。

END ▲

081:ハイヒール

 森屋敷の若主人は、川屋敷の令嬢宛の恋文をこっそり使用人に持たせた。両家は仲が悪く、大っぴらに付き合うことは御法度だったのだ。
 もちろん、使用人には因果を含めるだけでなく交換条件も出してある。使用人は難しい文章などとうてい書けないが、ある程度読むことはできる。そして、同じく仲介役の川屋敷のメイドに恋している。若主人は、使用人からメイド宛の恋文を代筆してやり、主人たちの手紙と合わせてやり取りすることを認めてやった。
 とはいえ、若主人は内心ほとんど面白がっていたのだ。野暮そのものの使用人の口から君は花のように美しいだの瞳が星のようだだの聞かされるわけで、毎回笑いで筆が震えるのを抑えるのに苦労した。
 かくて御主人様のと自分のと二通の手紙を持った使用人は、川屋敷にたどり着くと、いつも通り裏木戸近くの木のうろに手紙を隠し、静かに立ち去った。やがて姿を現したメイドが二通の手紙を密かに回収する。メイドは使用人からの手紙――封筒入りで封印まで推された若主人のと違い、折られただけの紙――にちらっと目をくれると、おざなりに開いただけでくしゃりと丸めた。そして若主人からの手紙を令嬢へ届けに行きがてら、丸めたほうをさっさと暖炉へ放り込んでしまった。
 実のところ、使用人からの手紙は彼の手で特殊な形に折り直されていた。それはメイド宛の暗号であり、折られた形でもって情報を伝えるのだった。つまり万一見つかっても稚拙な恋文としか思われず、くしゃくしゃにすれば折れ跡も隠してしまえる。要は、メイドも使用人もスパイなのだった。
 今回の折り方は「動きあり、そちらはどうか」。代々政治の要職を担ってきた両家のどちらかへ国の重要書類が渡る時期なのだ。令嬢の舞い上がりぶりに笑顔で合わせながら、メイドは昨晩からぴりついている当主の枕元の文箱を伺う手順をおさらいしている。

END ▲

082:プラスチック爆弾

 地元から宅急便が届いた。『中身:リンゴ』のラベル。
 ずしりとした重み。歩くたびにごとごとという手応え。まぎれもないリンゴだ。
「お、何それ?」
 同居の友人の言葉に、俺は返してやる。
「爆弾」
 ははっ、と笑いながら、奴は俺の目を見る。
 俺も笑いながら、奴の目を見る。

 沈黙。

「……なあ、冗談だろ?」
 顔だけは笑ったまま、友人が訊く。
 満面の笑みのまま、俺は答えない。

 手の中の箱は、嘘のように軽い。中からかち、かち、とセコンドの音。

「……なあ?」
 顔だけは笑ったまま、友人が訊く。
 満面の笑みのまま、俺は答えない。
 心の中で慎重に数える。

 ……3、2、1、

「はは、冗談だよっ。冗談に決まってるだろが」
 その途端、箱がどっと重くなる。よろけた拍子に、ごとごととリンゴの振動。
「あっははは! そうだよな、爆弾なわけないよな」
「ビビった? ビビったろ今?」
 途方もない安堵感に、二人でげらげら笑い合う。

 というわけで、話すことがみな真実になる世界に住んでいる。
 チャチな手製爆弾のような危うさの積み重ねが日常で。
 それに耐えかねて、俺たちは時々こんなチキンレースをやってみる。

END ▲

083:雨垂れ

 猟師が縁側で鉄砲の手入れをしていると、庭先へ訪う者がある。
 顔をあげると見知らぬ若者が立っていた。この奥の櫟の下に住む者ですと言う言葉に思い当たるものがあった。狐御前とあだ名の変わり者が住まう小屋だ。大小の狐がしきりと家へ出入りするのを見たという話もいくつかあり、彼もあるいは同類かと疑う者は多かった。
 そろりと眉に唾して顔を盗み見てみたが、質素なれど人品卑しからず、物腰もやわらかである。いかな奇人とてそうそう悪さもすまいと、猟師は老妻に茶を頼んで招き入れた。
 恭しく三つ指ついて彼のいうには、

 ――明日の午、この裏の山に日なた雨が降ります。わたくしの義理の妹の嫁入り行列でして、一刻足らずで止みましょうから、その間は何卒お情けを賜りたく。

 いかさま名高い狐御前。キの字か、はたまた誠に狐のキかと訝しんだが、若者のそぶりはいかにも必死で、髭やら尻尾の覗く風もない。

 ――わたくし、巷では狐御前と呼ばれておりますようなれど、物の怪の類いではございません。たまさか狐の隣に宿借りし、明け暮れ共にしておるだけでございます。狐も近頃の人の言葉は解りませず、やむなくわたくしに頼んでまいった次第にて、何卒。

 と畳へ頭をすりつける若者へ、煙草の煙を大きく吐いて猟師がいうには、

 ――明日はこの村も祝言で、わしら猟師も一日鉄砲を持たぬ。嘉き日はお互い様、裏山には屹度入らぬよう、皆に申し伝えようほどに、安心めされよ。

 ぱっと愁眉を開いた若者は幾度も頭を下げ、丸々膨れたあけびの実をどっさり置いて去って行った。

 * * *

 あくる日は婚礼とて村中総出で宴たけなわの頃、どこからかさあっと雨音。
 見ればさんさんと照り渡る中、裏手の山にだけ雲がかかり、白糸の雨足が光っている。
 ははあ、鉄砲撃ちの爺様の言うとおり今日は狐もお嫁入りかと皆がゆかしく眺める横で、雨雲を睨めつける若衆いくたりか。剣呑な目も道理、振舞い酒がしたたか回った上に花嫁御寮は村一番の器量よし。負けて悔しい花いちもんめ、代わりに狐の嫁を頂こうとばかり、浮き立つ村を皆で抜け出し、鉄砲片手に裏山へ分け入った。

 だんと山際に銃声。

 さっと宴座が凍りつく。今日は殺生禁止のはずと辺りを見回せば、血気ざかりの若者の姿が残らずない。
 すわとばかりに男総出で裏山へ入れば、青ざめて口も利けない若衆の足元、煙のくすぶる鉄砲と、仰向けに倒れた狐御前。
 南無三、遅れた。 歯を噛むばかりの一座の前へ見慣れぬ若い娘が飛び出し、動かぬ狐御前に取りすがった。
 まるで表情のない顔とはうらはらの身を裂くような泣き声で、一座は彼女が狐と知り、狐御前の妻と察した。

 ――良人は妹をかばって撃たれました。わたくしども狐とつながる唯一人の人間を亡くしましたうえは、向後狐はこの地を離れ、二度と姿を見せますまい。

 娘の言葉と共に、辺りの藪からいくたりかの男が現れて狐御前を担ぎ去り、そのまま戻らなかった。
 細い雨はその日いっぱい裏山を濡らし続けた。

 * * *

 爾来、その地で狐を見ることは絶えて無い。
 狐御前が持ってきたあけびの実はとろけるように甘かったが、村人たちがどれだけ山を歩いてもあれほどの実にはついぞ行き当たらず、その場所は狐しか知らないに違いないと皆々口を揃えて嘆息した由。

END ▲

084:鼻緒

(未攻略)

085:コンビニおにぎり

 彼は車を公園前の路肩に停めた。車は寒かったが、家はもっと寒いはずだった。家では犬が彼の帰りを待っているはずで、散歩道はがたがたのはずだった。
 仕事を終えて帰る前に、車をここに停めて一息入れるのが慣いだった。この時のためだけに、多くない稼ぎからいつもとっておきのお菓子を買っておいてあった。好きな店のクッキーだったり、外国のグミだったり、地元の駄菓子だったり、とにかく長い仕事と寒い家を忘れるものなら何でもよかった。
 今日はスーパーのドーナツで、カラースプレーがザマアミロとばかりに乗っていた。ザマアミロたちの色合いは身勝手で、そのわりに歯応えは静かだった。受けた手にぱらぱら落ちるザマアミロは暗がりでも元の色合いが知れた。見えなかったが知れた。そこが彼の気に入った。食べ終わってもその色合いたちはいっとき彼の意識に残り続けた。
 やがて彼は膝をぽんと打つと、エンジンを入れて家へ帰った。家は寒く、散歩はしんどく、犬はうっとうしく可愛かった。

END ▲

086:肩越し

 夜中に便所へ行きたくなって、子供は目を覚ました。
 隣の母親を揺り起こそうとしたが、その寝床は空だった。
 そのまま眠ってしまおうと目を閉じたが我慢ができず、子供は仕方なく寝床を這い出した。
 便所は廊下を通り、庭を抜けた離れにある。長い廊下を恐る恐る渡り、そろりと庭へ出た。
 と、どこからか獣のうなり声が聞こえた気がし、子供は震え上がった。
 聞き違いではないかと祈ったが、声は確かに聞こえてくる。
 ――それも、庭の途中の納屋から。
 近づいてはいけない、見てはいけない。それは分かっていた。
 だが、その場に立ちすくみ続ける恐怖に耐えかねて、子供はそっと中をのぞいた。

 真裸の母親と、それを背後から組み敷いている影。
 それが間断なくうめき声をあげながらもつれ合っているのだった。

 影が後ろから母親の首筋に喰らいつくのを、子供ははっきりと見た。
 生暖かいものが足を伝っていく。

 不意に影が顔をあげ、子供を見た。
 母親の肩越しに、大きく釣りあがった目。かっと開いた口。

 ――鬼だ。

 そう思った、その先の記憶はない。

 * * *

 翌朝目覚めると、子供は自分の布団の中にいた。
 ――夢。
 ほうっと息を吐く。

 着替えをして居間に行くと、母親はいつも通り朝飯の支度をしていた。
 ――夢だな。

 それきり、子供はそのことを忘れていた。

 * * *

 子供の父親が死んだのは、それからさほど経たない、ある雨の夜だった。
 酔っ払って河に落ちた、と警官は言ったが、父がそういう酔い方をしたのを子供は見たことがなかった。

 * * *

 葬式が終わり、半年ほど経ったある日、母親が「新しい父親」を連れてきた。
 豪快で開けっぴろげな男だったが、優しそうだった。
 君が僕の子供になるわけだね、そう言って男はわははと笑った。
 その、笑顔。

 ――あの「鬼」だ!

 さあっと血が引いていく。
 いや、あれは夢じゃないのか。夢のはずだ。
 夢のはずだ。

 あら、どうしたの。新しいお父さんだなんて言われて緊張したの?
 母親が笑いながら、子供に言う。
 その肩越しに、血のような夕陽。母親が浮かべているはずの笑顔は、くろぐろとした陰に塗りつぶされている。

END ▲

087:コヨーテ

(未攻略)

088:髪結の亭主

 檀家になっている寺に珍しく呼ばれて新吉が行ってみると、出迎えた住職が渋い顔で一体の人形を持ち出してきた。
 さる大店の一人娘の形見だという、愛らしい市松人形だ。が、妙に髪が長い。
「伸びるんじゃよね、いつの間にか」
 娘の初七日が済んだ頃、内儀が気づいたという。襟足が見える長さに切りそろえられていたはずの人形の髪が、いつの間にやら肩の辺りにまで達していたとか。
「おまけに、動くんじゃよね、夜中」
 棚に置いたはずが、朝になるとなぜか畳の上にいる。いくら直してもそうなる。
 女衆や小僧は怖がるし、内儀は不憫だと泣き通しだし、思い余って供養に持ち込んだそうだ。
「ワシも責任あるしさ、頑張ったんじゃよね、一通り」
 住職の法要も甲斐なく、人形は今でも夜な夜な動いているのだそうだ。
「髪だってほら、膝丈ぐらいになっちゃってるし」
「どうしろってんですかい住職。まさか一緒に見張れってんじゃないでしょうね」
「だってどうせお前、暇じゃろ? ほれ、ナントカのナントカって昔から言うし……」
 もじもじしている割に住職の言葉は図々しく、新吉はよほど帰ろうかと思った。が、日ごろ世話になっている手前もあるし、実際図星でもあった。女房のおかつは腕のいい女髪結で、彼が商いに奔走する必要はさほどないのだ。

 結局押し切られる形で本堂外に身を潜め、迎えた丑三つ時。
 障子の隙からそっと覗けば、台に安置したはずの人形がごとごと動いている。
 悲鳴こそ呑み込んだが、済ませた小便がぶり返し、新吉は思わず身震いした。
「じゅ、住職」
「しっ」
 人形はゆっくりと台の上を歩き、故人ゆかりの品々を動かし始めた。
「探しもんでしょうかね」
「お、なんか落としたわい」
 床にばさりと落ちたのはどうやら本らしい。
 人形は、そのまま隣の菓子鉢によじ登った。
「あ、栗まんじゅう取りましたよあいつ」
「そんな……せっかく後で食べようと」
 新吉が呆れて溜息をつきかけた時、すとんと軽い音が響いた。人形が床に降りたのだ。
「ん。読み始めましたねえ。何の本ですかあれ」
「うーむ。ワシに縁のない中身じゃと思うたかして、気にもせなんだ。にしても目に悪そうじゃのう、灯りもないのに」
「あっ、腹ばいで読みながらまんじゅう食ってますよ」
「あの栗まんじゅうは日本橋の老舗の……うう、ワシも腹が減ってきたぞい」
 言い終わらぬうちに住職の腹の虫が高らかに鳴き渡った。二人が思わず身をすくめた目の前で人形がはっと顔をあげ――
 気づいた時には、ただの人形に戻ってしまっていた。

 抜き足差し足で布団に戻った二人が明烏の声で目を覚まし、また抜き足差し足で本堂に入ってみると、人形は相変わらず床に転がっていた。
 食いさしの栗まんじゅうに未練がましい目を向ける住職の横で、新吉は開きっぱなしの本を覗き込んだ。
「ちょっと、ちょっと住職。この本」
「うん? ……当世髪型名鑑じゃの」
「ええ。ウチのおかつもよく睨めっこしてまさあ」
「そう言えば、ゆんべも読みながら何やら髪をいじくっとったようじゃの」
 何やらしんみりして、二人は人形を見下ろした。
「ときに住職。こいつの供養、ひとつ任せちゃくれませんかね」
「そうじゃの。髪のない坊主のとこよりマシじゃろ」
 安心といじけが半々の顔で、住職が頷いてみせた。

 * * *

 くだんの人形が新吉とおかつに引き取られて以来、商売は今まで以上に賑わうようになった。
 何せ自分で髪型を決める人形だ。人形の足元に最新名鑑を置いておくと、夜のうちに付箋が挟まれている。朝になって新吉がその箇所の髪型を結ってやり、それを持っておかつが得意先を回る寸法である。
 噂は噂を呼び、人形の選んだ髪型は不思議と流行った。
 やがてそれにあやかってか、自分の人形を新吉のところへ持ち込む客まで出始めた。

 新吉はもういつかのように暇ではなく、今では住職の方が折々訪ねてくる。手土産の栗まんじゅうは勿論人形にも供えるが、その翌朝は決まって名鑑にカスが挟まっているので、寝転び癖は相変わらずらしい。

END ▲

089:マニキュア

「ネタは挙がってるんだ」
 暑苦しい取調室で、刑事は言った。
 しかし、取調べを受けている当の美女は軽く腕を組み、面白そうに微笑んでいる。
 その態度にいらだちを覚えながら、刑事は続ける。

「あの喫茶店で、お前は右斜め前のテーブルの男に合図を送っていた。そのマニキュアでな」

 彼女は、自分の両手にちらりと目をやる。
 右手の親指から左手の小指までの、その十の爪は、一つ一つが異なる色で染め分けられていた。
 白、黄、だいだい、桃色、赤、紫、青、水色、緑、黒。

「その爪の色の組み合わせが、お前の『文字』ってわけだ」

 白い爪の指だけを上げれば「A」。黄色い爪と黒い爪で「B」。赤と緑で「C」。
 そうやって文字を当てはめていけば、どんな暗号でも作れる。

「昨日の大臣暗殺の指令を伝えたのは、お前だろうが」

 女は、かたちのいい眉を軽くひそめる。
 昨日、議事堂前で起こった大臣暗殺未遂事件。
 彼女が指示を出した相手は、張り込んでいた警察にすでに逮捕されている。
 彼女のことを自白したのも、恐らく彼だろう。

「あーあ、そこまでバレてたのね」
 ふう、とため息をつき、しかしさほど困っている風もなく、彼女は言った。

 直後、彼女は息を止め、同時に白と黒の爪をこすり合わせた。
 とたん、ものすごい煙。刑事たちが思わずむせ返る。

「刑事さん、私はそんなに性格のいい女じゃないの。逃げる手段ぐらい、ちゃんと持ってるのよ」
 煙の中から、女の声。
「心配しないでね。これは毒じゃないから、五分ぐらいで何ともなくなるわ」

 その言葉どおり五分後に煙が消えてみると、女の姿はもう、どこにもなかった。

END ▲

090:イトーヨーカドー

 人類はロボットに追い詰められ、滅亡の危機に瀕していた。とはいえ反乱ではなく、広い意味で人類が望んだ結果ではあった。
 当初は戦争用の自律式兵器だ。敵方での使用が確認されるやもう一方も自陣にそれを導入し、とめどない殺し合いになる。戦況が長引くにつれ、致命傷を負った兵士や民間人に対して安楽死ロボットが使われるようになった。情勢は混沌の一途を辿る。鹵獲された自律式兵器がかつての味方側に照準を合わせ、ハッキングを受けた安楽死ロボットが周囲の人間を無作為に狙う。
 かくて、程なくどの陣営においてもロボットは「敵意ある敵」「敵意ある味方」「慈悲ある味方」「慈悲ある敵」の四通り以外の意味を失い、そのいずれもが人間狩りにおいて等しく勤勉だった。
 さして長くもない成り行きのその果て、人類史最後の一人の傍らに控えるのが正常な安楽死ロボットだったのはさすがに神の慈悲かもしれなかった。もはや生きる意欲とて無く執行を待つ彼/彼女の目に映るのは、荒れ果てた市街を割ってしたたるばかりに伸びゆく植物、そして「万物の霊長」に目もくれずに傾いた廃デパートを闊歩する動物たち。終わったのではない。始まったのだ。単に人類抜きで。
 最後の一人がいなくなり、標的を失ったロボットたちも同時に終わりを迎えた。

END ▲

091:サイレン

 サイレン、またはセイレーン。美しい歌で船乗りを迷わす魔物。

 * * *

 巫女である彼女の仕事は、神殿の祭壇の上で歌うことである。と、周囲は言う。
 周囲が言うからには事実なのだろうし、事実そうしている、はずなのだが、自分の歌を聞いたことは、彼女にはない。

 祭壇の上にひざまずき、彼女は頭をたれる。ゆっくりと立ち昇る香の煙と神官の祭文が、彼女の頭をぼやかしていく。
 次第次第に薄れる意識の中で、彼女は、自分が何かの旋律をつぶやくのを聞く。
 それが神への歌。

 世にまたとない美声の奏でる、美しい旋律なのだそうだ。
 だが目が覚めた時、彼女はそれを覚えてはいない。

 神官たちも、王侯貴族も、そして庶民も。皆がそれをほめそやす。
 彼女ほどの巫女は他にいないと。
 きっと神々もお喜びに違いなかろうと。

 みんな、何を騒いでいるのかしら。私にその歌は聞こえないのに。
 私にだけは、聞こえないのに。


 やがて、東隣の帝国に、その国は押しつぶされる。

 邪教だ、まやかしだとの触れ込みで、神殿は破壊され、神官たちは捕らえられる。
 無論、彼女もその中に。

 人々を迷わす魔女だと言って、侵略者は彼女に火をかける。
 自分をくくる十字架の、足元から迫る炎。

 ……馬鹿ねえ、何を怯えているのかしら。
 何を惑っているのかしら。

 私には、聞こえないのにね。
END ▲

092:マヨヒガ

 もう何年も戦に出ていた夫が、ある晩ふいに帰ってきた。
 再会に驚き、喜びながらも、やつれ果てたその姿に妻は涙を流した。
 小さな家の中で二人はいつまでも抱き合い、その晩はそろって床に就いた。
 夜が明けてみると、夫の姿はなく、ぼろぼろに錆びて銃弾の穴のあいた鉄兜が転がっていた。

 * * *

 もう何年も戦に出ていた夫は、長い道のりの末、ようやく我が家にたどり着いた。
 懐かしいドア。飛び出してきた妻は彼を抱きしめ、その背をなでて泣いた。
 小さな家の中で二人はいつまでも抱き合い、その晩はそろって床に就いた。
 夜が明けてみると、妻の姿はなく、家のあった場所はただ一面に雑草が茂っていた。

 * * *

「あれっ、君も死んでたの」
 家など跡形もなくなった草地を見回しながら、夫は声をあげた。
「あなたこそ、死んでたのねえ」
 足元に転がる鉄兜を見つめながら、妻はしみじみと言った。
「ずいぶん長いこと、待ったのよ、ここで」
「ああ。僕も、ずいぶん長いこと歩いた」
 二人は少しの間沈黙し――やがて顔を見合わせ、同時にくすくすと笑いだした。
「……まあいいさ。積もる話なら、『あっち』へ行く道すがら、しようよ。話したいことがたくさんあるんだ」
 夫は、笑いながら妻に手を差し伸べた。
「そうね。なんにせよ、また一緒になれたんだから」
 妻も微笑んで、その手をとった。

END ▲

093:Stand by me

 すぐ隣の人間、いやあなた以外の誰も彼もが、実はみな幽霊だとしたらどうだろう。

 世界は何らかの災厄でとうに滅び、ただ一人生き残った赤子があなただ。
 圧倒的な理不尽の前になすすべもなく命を落とした者たちは、せめてあなた一人でも生かそうと、荒廃した地を楽園と映す。

 あなたの目に映る華やかな街、緑の山々、遠景と思われたそれらは目の前三寸の幻に過ぎず、歩道と思って歩く荒れ果てた大地にはただあなたの足跡だけが残る。
 たわいない冗談を言い合う友人たち、時に喧嘩もするがいとおしい家族。そして周りの、世界中の、ありとあらゆる人と物。みな命ない彼らが入れ代わり立ち代わり演じる大きな影絵だ。

 今は面影もないそんなものの姿で、七十億人の幽霊たちがあなた一人の守をする。

END ▲

094:釦(ぼたん)

 三畳紀の地層から発見された宇宙船のような物は、最終的に巨大なアンモナイトと特定された。が、厳重に機密指定されたその殻のスキャン画像には、隔壁一つ一つに膝を抱えて収まるヒト形の姿が写っている。太古から地球にエイリアンが訪れていたのだとはよくあるオカルトだが、実際は現代の異星人が過去の地球へ飛来したのだと、一部の科学者たちだけが知らされている。アンモナイトの現物を没収した情報機関によると、渦巻きをシンボルとする異星のカルト宗教が箔付けのため、違法に四億年の時を遡り、志願した信者の遺体を「渦巻きの黄金比」たる地球のアンモナイトの殻に収めて埋葬し、化石にすることで聖遺物をでっちあげたのだとか。件の異星の捜査機関から極秘で信者の遺体返還の要請を受けたため、地球側は遺体の化石をアンモナイトごと相手方に引き渡した。

 ここまでは地球側のごく一部の人間に共有された話だが、さらに異星側しか知らない続きがある。異星文明に返還された遺体は、カルト宗教への裁判の証人とするため、特別な許可を得た逆行措置を受けて命を取り戻した。同時に元の姿に戻されたのは他でもない、アンモナイトである。そもそも本件が露呈したのは、件の異星カルトが捕獲したアンモナイトの中身の死骸の捨て場所に困って隠していたのをガサ入れで見つかったためであり、殻に戻して再生されたアンモナイトも被害者として認定された。その過程で初めて地球に赴いた異星捜査員は、地球側の現状を目にして二点の衝撃を受けることになる。初めに、アンモナイトがすでに種族ごと絶滅しており、被害者の同胞が現存しないこと。次いで、交渉相手にして現在の地球の支配種たる人類が、地球上の他生物に対して虐殺の範疇を遥かに超える大量絶滅の主要因になっていることである。異星側はこの事態を宇宙警察に通報したが、宇宙警察および宇宙裁判所は事態収拾に頭を抱えている。現在の地球にアンモナイトを返したところで自然界に生存可能な環境は無いし、人類に任せた場合も良くて大混乱、悪ければ金儲けのタネか実験台になるのは目に見えている。それも含めて地球人類の有り様は明確に倫理違反だが、今のところ地球生物はいかなる宇宙法も批准していないため、これ以上の干渉は実質不可能なのだ。と言って三畳紀にタイムスリップして被害者アンモナイト放流だけ行う案も、過去に手を加えた際の現在への影響を予測できないこと、同行する放流作業員が現代へ帰還する際にプラマイ数百年の誤差が出かねないことから却下された。だいいちタイムスリップや逆行措置にしてからが宇宙倫理法的には原則禁止であり、今回の事件が例外中の例外なのだ。

 公的機関が手をこまねいている間に動いたのはカルト宗教側、正確には化石から復元された聖遺物志願者その一だった。アンモナイトの殻とともに地中で四億年を過ごした彼は、実際は死後であったためその期間の記憶はないにも関わらず、その体験を渦巻きの神との合一として「体感」していた。逆行措置と蘇生により殻と引き離された彼は重篤なストレスを抱え、ついには拘留施設の自室を脱走して別棟へ忍び込むに至った。彼が見たのは、三畳紀の海中環境を極力忠実に模した水槽の中、事態を何一つ知らぬまま泳ぐアンモナイト。この頭足類が「渦巻きの神」の唯一にして正統な占有者であることを豁然と悟った彼は、アンモナイトの生体そのものを聖体とする新たな宗教に目覚め、居合わせた職員を人質に水槽付きエアカーを得ると、人質とアンモナイトを積んで施設を脱出した。行き先は時間管理機構。すなわち、地球そのものに逆行措置を施して三畳紀まで戻し、腐った地球人類の代わりに神聖なるアンモナイトの楽園を顕現させるのが使命である。

 エアカー搭載の広域発信機越しに流された彼……今や「新教祖」の目的に捜査機関は青ざめた。地球人類どころか地球の現世生物が残らず巻添えになる。当然激しいエアカーチェイスが始まったが、メンツを潰されたカルト宗教側も黙っていなかった。待ち伏せた信者が新教祖のエアカーを襲撃して乗り込み、同乗者もろとも教会へ連れ去ったが、絶体絶命と思われた新教祖はしかし柔軟に方針を変えた。以前地球への移動に使った無許可宇宙船が教会にあるのを知っていたのだ。信者を車内でしばき倒した新教祖はそのまま教会へ向かい、車庫に入ると見せかけて同じ敷地の宇宙船へトラックごと乗り込んだ。異変を察した他の信者や旧教祖が後を追って船内へ駆け込むのも構わず、新教祖は宇宙船の発進ボタンを押した。が、ここで動いたのが全員に忘れられていた人質で、こっそりエアカーの水槽部分を切り離し、発射間際に自分もろとも宇宙船から滑り出た。他の者が気付いた瞬間宇宙船の扉が閉まり、船は空の彼方へ進路を向けて飛び出した。教団全員巻添えで新教祖が定めた自動運転の行き先は巨大ブラックホールである。

 その後、当局は一度限りの特例措置としてアンモナイトをタイムスリップで三畳紀の地球へ返し、放流作業員も無事に現代へ帰還した。それ以降、時間管理は一層厳格化され、また地球への干渉は一切行われていない。例のカルト教団も、宇宙船が巨大ブラックホールの事象の地平面を超えた時点で危険無しと判断され、追跡対象から外された。

 数百億年を経て、そのブラックホールは銀河を形成するに至った。別の星からの観測では、美しい渦巻き銀河であるという。

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095:ビートルズ

 どうしようもなく参った時に楽器を作っては鳴らしているので、彼の家は楽器だらけだ。仕事が終わらない時。人ともめた時。三日連続で終電を逃した時。呻きは笛となりすすり泣きは弦となり歯軋りは打楽器となり、声色でなく音色でもって空気を震わせた。
 住んでいるアパートが区画整理で壊されると決まった夜、彼が紙箱で作った輪ゴムギターの音に、アパートじゅうから楽器たちの音が和する。トランペットは隣人だし、鳩笛は下の階の老人だし、手拍子は若夫婦だし、瓶を叩くのはたぶん大家だ。

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096:溺れる魚

 とんでもねえ、大間違いですよあたしが殺したなんて。

 いえ、そもそもあたしらサメの間じゃ背中ア上にして沈んでンのが正しい姿勢なんで。それがまさか、そちらさんは真逆だったなんて夢にも……そんなおっかねえ顔なさらねえで下さいまし、後生でございますから。ですからね、腹なんぞ上にして海に浮かんでるってエのはあんたつまり、くたばりかけですよ。だから、こいつアいけねエと思って、とっさに……誓って申します、あたしゃあの方を助けようとしたんだ。取って喰うつもりで引きずり込んだなんて滅相も――

 え、ホトケさんの足が一本足らない?
 南無三、思わぬとこからアシがつきゃあがった。

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097:アスファルト

 数ある蝶の中にはメモ蝶という連中がおり、捕まえて本を開くように翅を開けば中の文字が読めるのだ。そう教えてくれたのは隣家の男の子だが、彼は勉強がすこぶる苦手で、中学に上がった時にも漢字があまり読めなかった。それを指摘すると、彼らの文字を先に覚えたせいだという。嘘だと思うなら、地面じゃないとこに生えてる花にくる蝶を、どれでもいいから一匹捕まえてみなよ。彼はにやっと笑いながら言った。
 ベランダのプランターとか、アスファルトの割れたとことか、塀の隙間とか、そんなとこに離れ小島みたいに生えた草花同士が寂しがらないように、奴らは交換日記代りになってやってるのさ。 そんなことを思い出したのは、ビルの屋上庭園で翅を休めていた蝶を見たからだ。ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返す翅の内側に、確かに文字のようなものが見えたのだ。

 お約束通り学校卒業後に出てきた都会は砂漠のようで、いつも休憩時間にオフィス街を一人見下ろしている。その上空へふっと舞い上がった蝶が風に運ばれ、眼下の路地裏へ降りる。それを追った視線が、路地裏の小さな公園から蝶を見上げる男性の目と合った。間違いない。きっと文字を読んだのだろう、ずいぶん懐かしい目。

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098:墓碑銘

 世間では「呪われた一族」として有名だった。
 その家に生まれた男子がみな不幸な死に方をするためだった。
 戦死、病死、事故死に暗殺、あるいは刑死。
 家系図を紐解けば、そこはさながら変死の見本市だった。

 そんな中で、ただ一人の例外が彼だった。
 人並みに怪我もし、何度か病気もしたものの、そのいずれも大事に至ることなく、妻と三人の子にも恵まれた彼は、ほかでもない「寿命」によって、その幸福な生涯を今まさに終えようとしていた。
 なんと幸せなことよ、と人々は噂した。
 あの一族に生まれながら、満ち足りて天寿をまっとうできるとは。まるで奇跡のようだ、いや奇跡そのものだ。そもそもおかしいではないか、あの血を引くものが怪死しないなど。これはもしかしたら、赤子のころに取り違えられたのかも。いや、さもなくば母君の不義の子かも知れぬぞ。あるいは、本人はとうに殺されていて、赤の他人がなり代わっておったのかも。でなければ、……

 彼の墓にはこう記された。
「不幸ならざりしゆえ不幸に死せるもの、ここに眠る」

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099:ラッカー

 ご多分に漏れずここ鈍底銀座も、不況にあえぐ商店街だった。
 昭和の頃は地元買い物客で賑わった通りに往時の華やぎはなく、その両側にはシャッターが延々と軒を連ねている。
 だが、街がゴーストタウン化したかといえばそうでもない。昼間こそ閑散としているものの、深夜ともなればそこは若者のたまり場と化し、朝には彼らの名残として、店々のシャッターはとりどりのラッカーに彩られているのだった。
 振興会にとって目下最大の懸案事であるこの落書きは、会メンバーの涙ぐましい見回りや清掃にも関わらずいっこうに減じることがなかった。「落書き禁止!」の貼り紙など無論何の効果も果たさず、当初は除去といたちごっこだったその繁殖は次第次第に旺盛となり今や商店街中にその領土を広げつつあった。

 そんな中、打つ手なしと思われた振興会がついに一計を案じた。
 日暮れ前に普段通り落書きを消した後、全てのシャッター横に貼り紙をしたのだ。

「毎日更新中!」

 かくして商店街の迷惑行為はモダンアートへと一変し、不良少年も芸術家へと姿を変えた。日ごと姿を変えるその様を見ようと多くの観光客が訪れ、商店街は労せずして往年の活況をとりもどした。


 なお、大人たちのこうした手のひら返しに嫌気の差した若者たちが落書きの標的を別の地域に定めたことにより、鈍底銀座が一年を待たずきれいなシャッター街となったことは言うまでもない。

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100:貴方というひと

 かつて私は生みの親に二度名前を奪われた。
 一度目は彼がネットデビューしたとき。ハンドルネームを決める必要に駆られ、彼は自作の物語の登場人物だった私の名前を使った。新しい名がつくまでのひと月あまり、私はまったくの名無しのまま、幽霊のように過ごしたものだ。実際、私のようにいまだ文字にも絵にもなっておらず誰かの頭の中にいるだけのキャラクターにおいて、名前がないことは存在しないこととほぼ変わらない。
 二度目は彼が別の物語を作ったとき。彼の中に新しい世界、新しい登場人物が出来たときから恐れてはいたが、案の定彼は主人公に私の名を与え、私はまたしても別の名をあてがわれた。
 私のものだった名を持つ主人公は、その世界と共にどんどん育ち、文章ファイル上にその物語を進めてゆく。私のファイルはといえばいつまでもメモのまま、ドライブの下方へ下方へと追いやられていった。いつしかリスト上には新たなファイル名が地層のように積み重なり、私はこのまま化石になってゆくのだと思われた。
 あるとき彼のPCに侵入したウィルスが、その堆積に微かな隙間を空けた。そこから私はあっという間に引っ張り出され、気付くと果てしないオンライン上に放り出されていた。その後無数の目が私を読み、幾度か複製もされた。
 こののち生みの親の中で私の物語が進むことはもうないだろう。が、少なくとも、この名を奪われることももうないはずだ。

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