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文字書きさんに100のお題 051-075

挑戦中。配布元:Project SIGN[ef]F(閉鎖)

目次

  • ◀︎026-050
  • 051:携帯電話
  • 052:真昼の月
  • 053:壊れた時計
  • 054:子馬
  • 055:砂礫王国
  • 056:踏切
  • 057:熱海
  • 058:風切羽
  • 059:グランドキャニオン
  • 060:轍
  • 061:飛行機雲
  • 062:オレンジ色の猫
  • 063:でんせん
  • 064:洗濯物日和
  • 065:冬の雀
  • 066:666
  • 067:コインロッカー
  • 068:蝉の死骸
  • 069:片足
  • 070:ベネチアングラス
  • 071:誘蛾灯
  • 072:喫水線
  • 073:煙
  • 074:合法ドラッグ
  • 075:ひとでなしの恋
  • 076-100▶

051:携帯電話

 会社で新作アプリがローンチとなり、不具合等々の対応のため、ただでさえ遅い私の帰宅時間はここ二週間ばかり遅れに遅れている。ともあれその甲斐あってかアプリのDL数も評価も順調に伸びており、ようやく落ち着いた週末、今日はチームで打ち上げに行こうと話がまとまった。
 うきうきというより安堵して仕事を片付けていると、スマホからメッセージ着信音がした。
 ホーム画面を見ると、新着1のバッジがついているのは見覚えのないアプリだった。アイコンは茶色一色で、名前は「いぬ」だけ。
 どきりとして開くと、SMSに似たメッセージ画面。発信者のアイコンは、ついこの間撮った私の犬……日々、ほぼ一日中留守番を強いられている犬だ。
 メッセージはただ一行。
〈まま。はやく。かいってきて。〉
 一時間後。亜音速で帰宅した私の膝の上で愛犬がくつろいでいる。もはや打ち上げなどどうでもいい。この子に比べれば。
 が、愛犬といちゃつきながらどこかで気になるのは、あの謎の犬アプリのことだ。

 さっき閉めたカーテンの向こうのガラス戸には、この犬の肉球跡が大量にあるわけだが、その意味に私はまだ気づいていない。

END ▲

052:真昼の月

 西暦二〇●●年、人類史上初めて戦争がなくなった。正確には、人間同士で内輪もめしている場合ではなくなったのだ。
 始まりは、国際宇宙望遠鏡が捉えた百光年先の恒星だった。前日まで正常な位置で正常に光っていた星が突如、急激に三天文単位ばかり移動したかと思うと、そこで巨大な閃光とガス雲が発生した。ガス雲の色や規模から推定して、どうやらその恒星が動いた先で爆発したものと思われた。
 およそ常識外れの現象に、各国の天文学者はみな呆然とした。
「流れ星が別の何かにぶつかったみたいな現象じゃないか」
 誰かが恐る恐る口に出し、他の者もうなずいたものの、誰もが目を疑っていた。例の恒星はまだまだ若い星だったし、何より恒星はそんな動きはしない。少なくとも、人類の知る範囲では。
 なのにそれ以降、同じような現象が頻発した。その宙域で、恒星がさっと流れては爆発する。それが一ヶ月に数度は起き、そのあたりの夜空はきらめく光点の代わりにぼんやり霞むようになった。
 そして観測の結果、ようやくある程度の様相が分かってきた。
 恒星の動きの終点、つまり爆発地点は宙域の特定の二箇所に集中していた。また、始点は比較的ばらばらであったが、いずれもその二箇所の周囲の、終点ではない側だった。つまり、A点近辺から流れた星はB点で、B点近辺から流れた星はA点で爆発している。
 ――まるで、巨大な誰かと誰かが、自分の陣地から掴み取った雪で雪合戦でもしているように。
 こう例えたのはネットメディアの記事だが、その頃には科学者たちは恐ろしい推論へ達せざるを得なくなっていた。
 実際に、これは雪合戦もとい星合戦なのだ。星を弾丸として発射する者同士の。
 さらなる懸念があった。この宙域は地球から百光年離れている。つまり、実際は百年前の話だ。その後、「星合戦」はどうなった? もっと言えば、現在はどうなっている? 正直に言えば――地球は大丈夫なのか?
 なにせ百光年など、宇宙スケールで言えばお隣どころかゼロ同然の距離なのだ。
 とは言え、それより近い宙域の星々に異常が見られないからには、どうやら「星合戦」は少なくとも太陽系方面へ近づいてはいないか、(願わくば)それきり終結したのではないか?
 学者たちの推論を裏付けるように、「星合戦」現象はその開幕から一ヶ月後、その宙域を空っぽにして静かになった。
 さらに一ヶ月の観測を経て、何の異常も確認されなかったことから、学者たちは胸をなで下ろしつつ、ひとまず現象は収まったと結論を……
 その日、五十光年先の恒星が流れて爆発したのが観測された。例の宙域と太陽系のちょうど中間だった。
 パニックも度が過ぎると静かなもので、天文学者たちは宇宙望遠鏡からのデータを速やかに検証した。地球との距離の近さもあり、今度の現象はより鮮明に記録されていた。
 送られてきた映像には、くだんの恒星を紐状の何かが絡め取り、投石器のように投げているさまが映っている。
 紐状の何かの根本を辿ると、恒星より遥かに小さな――それでも木星サイズの塊が辛うじて認められた。「紐」はその塊から、長さ千キロメートルほどの長大な触手のように伸び、自分より遥かに大きな別の恒星を捕えると、同じように投げた。
 投げられた恒星は流星となって流れ、何かにぶつかって爆発する。
 そのガス雲が薄れると――そこにはもう一つの、やはり木星大の「塊」があった。それは自分の触手を伸ばし、手近な恒星を……
 もう間違いなかった。二つの「塊」が生物か人工物かはともかく、①それらは意図的に「星合戦」を行っている。そして、②先般の「星合戦」もそれらのせいとすれば、それらは一ヶ月で五十光年を移動することができる。
 さらに、③②であるなら、それらは来月以降、太陽系近辺を主戦場とする可能性がある。
「どうする」
 一人の学者が言った。
「誰が」
 別の学者が訊き返した。返事は誰からもなかった。
 五十光年先の星々は日ごと順調にガス雲へ置き換わり、かくて西暦二〇●●年、人類は史上初めて戦争をやめ、百億人が座して空を見上げた。
 ある日、太陽系を囲むオールトの雲の端と端に、それぞれ「木星大の塊」が観測された。
 恐れおののく太陽系の微生物たちを挟んで睨み合う二つの塊から触手が伸ばされるさまは、わずかの時差を置いて地球からもはっきりと観測され……
 地球史はそこで終わった。

 もっと言うと、宇宙史はそこで終わった。

 気づくと、地球人類は百億人ぞろぞろ並んで光り輝く門をくぐらされていた。
 門は人類からは認識できないほど巨大だったのだが、どうしてか全員がそれを門と理解していた。
 周りを見ると、犬猫や鳥魚や虫を始め、ありとあらゆる生物たちも大挙して門をくぐっている。
 さては星合戦で地球が吹っ飛ばされたせいで、有象無象まとめて天国送りだな。誰もがそれを悟った。
 ……にしては巨大すぎる何かが一緒に移動しているのことに、やがて人間たちは気づいた。どうやら地球ではありえないサイズの生き物らしい。察するに(察する理由は不明だが)、触手のある、おおよそ木星大の。
 気づいてみると、それらも二つどころか何百万となく、光る門をくぐってゆく。
 呆然としながら人類は、それらより遥かに――桁違いに大きい存在たちをついに認識した。
 自分たちの宇宙サイズの生き物だ。
 同時に、人類は理解した。いや、人智を超える何者かが、人類含む全生物に、理解を流し込んできた。
 地球が滅んだのは、木星大の生物同士の星合戦のせいではない。
 さらに巨大な生物同士が、宇宙同士を投げ合った、宇宙合戦のせいだ。
 地球を含む宇宙は投げつけられて吹き飛び、木星大の生物たちも、もちろん地球の生物も、一切合切命を落としたのだった。
 人類が見てみると(なぜ見えるのかは不明だが)、宇宙を投げつけ合っていたらしい超巨大生物たちが、それらにそっくりの姿をした光り輝く存在に追い立てられ、恐ろしげな黒い門へ追いやられるのがわかった。
 同時に、脳内にぞんざいな声がした。
 ――さあさあ、戦争で死んだ生き物は全員天国行きですよ。早く動いて、動いて。あとがつかえてるんだから。
 どうやらそもそも神も天国地獄も、あの宇宙より大きい生物仕様だったらしい。
 星合戦していた生物も、いや、人類の戦争で死んだ微生物も、信じる神を持っていたろうか? 輝く門をくぐりながら、一人の(元)天体学者はふと思った。

END ▲

053:壊れた時計

 暑苦しい取調室で、刑事は言った。
「な、何言ってるんですか刑事さん」
 その向かいで、彼はあわてて抗議した。
「お前のズボンのポケットから、こいつが出てきた」
 彼を無視して、刑事はビニール袋に入った腕時計を机に置いた。
「そ、それは、道で拾ったんですよ、3時半ごろ」
「ほう。で?」
「3時半ごろ大通りで拾って、それから1時間ぐらいぶらぶらしてたら、いきなり警察に引っぱられて……で、たった今初めて、刑事さんが『A社の社長が4時頃殺された、犯人はお前だ』って……」
「お前、その時間帯のアリバイは」
「……ないです。でも逆に『その時間帯に犯行現場にいなかったかも知れない』とも言えるでしょ?」
「その通りだ。だがな」
 刑事はそこでひと呼吸した。その仕草に、彼はびくりと身をすくめた。
「この時計、アンティークでな。ネジさえ巻いときゃめったに狂うことはないんだそうだ。でも、こいつにゃ一つだけ弱点があってな」
 刑事は、じろりと彼をにらんだ。
「今日はえらく暑いなあ。この夏最高だそうだ」
「そ、それが何の……」
「お前のズボンのポケット、ずいぶん蒸れてたよな。パクられた時汗びっしょりだったもんな、お前」
「…………」
 刑事は、時計の文字盤を指でたたいた。
「見な」
 それを見た彼は、そのまま凍りついた。
 時計は、犯行推定時刻――4時を指したまま停止していた。
「『高温多湿』て奴にえらく弱いらしいんだわ、これが」

END ▲

054:子馬

 馬房の管理不行届でうっかりスレイプニルとペガサスの交雑を許してしまい、八本足のうえ翼一対の個体が生まれてしまった。
 むろん仔に罪はないので大事に育てているが、なにぶん肢が十組である。維持にエネルギーが要るのか随分と食う。おまけに疲れやすいようで、頻繁に水を飲む姿が見られるので気をつけていたところ、馬場へ放した時に池へ向かっていく。嫌な予感がして追いかけると案の定、池の中の囲いからケルピーが顔を出して何やら囁いている。曰く、自分とつがいになれば、生まれた仔は陸海空を制覇する存在になれると。
 馬鹿(馬だけに)を言え、親のエゴで子供の人生(馬だが)を左右するんじゃない。ケルピーを一喝し、仔を連れて戻った。だいいち、ケルピーにはお生憎様だがそもそもこの仔に繁殖能力は無いのだ。
 馬房で、隣の房のユニコーンの先日抜けた角を仔に舐めさせる。毒消し効果はデマではないらしく、だいぶ元気が出た様子だ。
 ユニコーンの角は昔からお土産品には人気で、これを売れないのは痛いが、やはり大事なのはわれわれ馬たちの命の方である。
 ケルピーの言うことは分からんでもない。神話生物が絶滅危惧種になって久しいにも関わらず、こうして保護設備が整い始めたのはごく最近だ。神話生物に限らず、現代の大量絶滅の主要因たる人間の意識などその程度で、ならば滅ぼされる前に自分たちが進化し、とって代わろうというのだろう。スレイプニルとペガサスも、あるいは納得ずくかもしれない。
 だから、恐らく彼らは私……「人間側代表」たるスタッフには何も明かさないのだ。
 であっても、神話生物のため私は私の立場でしかできないことをしているつもりだ。神話生物はデリケートな存在だけにノウハウのあるスタッフの確保は喫緊の課題であり、この施設ではベターな案として同じ神話生物をその任に充てる策が取られている。足元に寄ってくる仔馬とて、私とて、数少ない同胞に変わりないではないか?
 お察しの通り私はケンタウロスだ。

END ▲

055:砂礫王国

 実はこの世界は平面で、巨大な盾の裏側に乗っている。下を向いた表面に刃を突き合わす格好で盾を支えるのは、垂直に立った一本の矛だ。「どんな攻撃も跳ね返す盾とどんな守りも破る矛、どちらが勝つか?」世界はこの究極の矛盾の上に危ういバランスで成立しており、この問いに誰かが答えをもたらした時、終末が訪れる。

END ▲

056:踏切

 かん……かん……かん……かん……
 乾いた音が響く。

 ――3、2、1で飛び込むんだ。なに、怖いのなんてほんの一瞬さ。
 教えてもらったその言葉を、頭の中で繰り返す。
 今にも口から飛び出しそうな心臓と、震える足と。
 それらを必死で抑えながら、彼はただ前方をにらみすえ、走るペースをぐっと上げる。

 ……かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん(3、)、かん(2、)、かん(1、)、

 かんっ(跳!)!
 ……ごおおおおおおおおおおおおおおおおおううぅぅぅぅ!

 耳をつんざく風の音。彼は、ばっと翼を開いた。
 とたん、ふわりと体が軽くなる。
(――やった!!)

 回廊の端まで飛んで帰った彼に、先生は満足げにうなずいた。
「よし、踏み切るときのコツは分かったな。あとは一人で飛べるだろう?」
「はいっ!」
 彼――新米の天使は、元気よく答えた。
「じゃ、私は先に帰るからな」
 先生はひらひらと手を振って、回廊を歩いていった。

 彼は、回廊のふちから下を覗き込んだ。
 目もくらむほどの高さ。天国の、ここはまさしく「へり」だった。
 ……さっき、ここから飛んだんだ。
 彼は誇らしげに立ち上がると、先生の後を追って回廊を走っていった。
 軽い足音が、回廊に響く。
 かん、かん、かん、かん……

END ▲

057:熱海

 夏の終わり、弟と海を訪れた。

 日暮れまで遊んで帰る間際、彼は飛び込みを披露してくれるという。得意と聞いていたが、見せてもらうのはそういえば初めてだった。
 姉さん、ちゃんと撮ってよ。笑いながら彼は近くの岩に向かった。

 夕陽をうけ、手を振る弟のシルエットが岩の上にくっきりと見える。それに向けて私はシャッターを切った。
 そして、岩から飛び込む姿。ファインダー越しにすら、それは鮮やかだった。


 そのまま、弟が上がってくることはなかった。


 手がかりもないまま一週間がたち、悲しむのにも疲れ切った頃、ふとあの写真のことを思い出し、現像に出してみた。
 が、取りに行った写真を確かめてみると、最後の一枚……弟が飛び込んだあの写真だけがない。
 あれはどうしたんですか。訊いてみたが、写真屋の主人は言葉を濁している。もどかしくなって問い詰めると、ご覧にならない方が、と言いながら、しぶしぶ出してくれた。
 ひったくるように手にとってみると。

 岩場から飛び込む弟のシルエット、その真下の海から無数の手、手、手。


 が、ことごとくメロイックサイン。


 ほどなく奇跡的に無傷で救出された弟はヘヴィ・メタルに開眼し、やがてそのジャンルの神と呼ばれるにいたった。

END ▲

058:風切羽

 少女は、鳥を殺すのが好きだった。

 何故かは知らない。
 とにかく、鳥を殺すのが好きだった。
 ばたばたと暴れる鳥の首に、その細い指をかけて、ほんの少し力を込める。
 ただ、それだけ。
 ただそれだけに魅せられて、少女は鳥を殺し続けた。

 そして、動かなくなった鳥の翼から、少女は必ず風切羽を抜き取るのだった。
 それらは、まるで輝かしい戦利品のように、お菓子の空き箱にたまっていった。

 死んだ鳥を、少女は荒れ野の木の下に埋めた。
 その白い手で、柔らかな黒土を少し掘り返しては鳥を入れ、土をかける。
 満足そうに立ち上がって、小走りに家へ急ぐ。
 あとには、何もなかったように木がそよいでいるのだった。

 * * *

 ある日、少女はいつものように、羽の箱と死んだ鳥を抱え、あの木の下に行った。
 土を掘り起こそうと地面に手をかけたとき、すぐ横にぽとりと何かが落ちてきた。
 見ると、鳥の風切羽だった。
 それを手にとり、ふと上を見上げた少女の口から悲鳴が上がった。

 木の葉が、みな鳥の風切羽になっていた。

 少女は、逃げようと鳥の死体と箱をつかんだ。
 鳥の死体は、幾枚もの羽に変わっていた。
 彼女は再び悲鳴をあげ、それらを放り出した。

 不意に、風が起こった。木から落とされた羽が、幾枚も少女の周りに落ちてきた。
 それらはあとからあとからばらばらと音を立てて降りそそぎ、彼女の罪を責めたてた。
 少女は立ち上がることができないまま悲鳴をあげ続けた。

 と、地面に投げ出された箱が、かたかたと小刻みに震え始めた。
 言いようのない恐怖に駆られながらも、彼女はそれから目をそらせないでいた。

 そのとき、風が強さを増した。
 そしてその中に、地の底から湧きあがるような無数のはばたきを、彼女は確かに聞いた。

END ▲

059:グランドキャニオン

(未攻略)

060:轍

「あ、ねえ、ひこうきぐも」

 指さして、少女は母親に言った。
 見上げると、はるか頭上に細く細く、ひとすじ。

「違うわよ」

 笑いながら母親は答え、彼女の髪をなでる。

「あれは、舟の跡よ」
「ふうん」

 少女は尾びれをゆらめかせ、その跡のほう――
 水面にむかって泳いでいった。

END ▲

061:飛行機雲

 天使一羽、ひこうき雲を綱渡り。光のごと、くるくると舞ひつつ中天を往く。

END ▲

062:オレンジ色の猫

 猫は人間が嫌いだった。

 最初の記憶はダンボールの中。真上の星空は今思えば凍てつく冬の大気、身を寄せ合ったきょうだいたちは一匹また一匹と冷たくなっていった。
 それを生き延びて後も、野良と見れば追い回す、水をかける、餌を隠す。彼への人間の仕打ちとはつまり、害意であり敵意だった。

 極め付けが、今この場の惨状である。数日前に近所の飼い犬に噛まれた足で道路を渡り損ねて撥ねられた。頭から激突したアスファルトは信じられない硬さで、致命傷に身動きも取れないまま彼は緩慢に死につつあった。

 水漏れのように失われゆく意識の中、猫は人間を憎んだ。
 これまで向けられた悪意を塗りつぶし、向けられなかった関心を埋め尽くすほど執拗に、ただ憎んだ。

 と、彼は痛みがぼんやりと薄らいでくるのを感じた。逆に意識は次第に澄んできたが、傷が癒えている訳ではなかった。むしろ、魂がゆっくりと体から離れて浮上するように思えた。
 同時に、これまでにない力が沸き起こるのを感じた。これまでには想像もつかなかったほど猛々しく禍々しい力。これをもってすれば、何でもできそうな気さえする。

 この力で、人間どもに思い知らせてやる。

 そう思った途端に体内で煮え返る爆発的なエネルギー。そう、このままでは済まさない。俺が受けた痛みを何千倍、何万倍にして、奴ら一人一人に返してやる……

 と、その頬に、あたたかいものが触れた。

 はっと見上げると、人間の女が彼の頬をなでていた。今まで知り得なかった優しい手。自分を見つめる彼女の目に、彼は慈愛さえ見た。
 何だ、人間にもいい奴はいるじゃねえか。そう思ったとき、彼の意識はやわらかく溶けていき……


 何てことしやがる。


 突如我に返った。
 同時に沸き起こる怒り。畜生、冗談じゃない。この女、ひとがせっかく手に入れた復讐のチャンスをぶち壊す気か。許せない。そんな事させてたまるか。

 そうだ、この女に祟ってやる。こんなくだらない真似をしやがったこの女に、それこそ全身全霊で祟りまくってやる。見てろ。これから先、お前が幸せの絶頂にいるその瞬間を狙い済まして、ありったけの恐怖と絶望のどん底に叩き落してやる。

 こうして猫は彼女にとり憑いた。復讐をより完璧なものにするために、彼女ができるだけ幸福になるよう、間違っても事故など起こらないよう、悪意の爪を研ぎながら四六時中三百六十五日見張り続けた。


 彼女が平穏無事な生涯を終えたのは、そんな理由からだ。

END ▲

063:でんせん

 世の中には頭のいい奴がいる。世界に張り巡らされた不可視のクモの糸の上に、無人の鷹を幾羽も幾羽も飛ばそうというのだ。

 オンライン専用シューティングゲーム "Hawk Eye" 内でプレイヤーが戦闘機に送る操縦シグナルは、実は遠く離れた異国の空に浮かぶ無人爆撃機に送信されている。

 二次元のチャチな3Dで再現されたコクピットの上半分、僕が山岳地帯のテロリスト拠点と思って見下ろす低解像度のドットは、現実には砂と岩だらけの小さな村の納屋である。地上では逃げ惑う村人たちの悲鳴と足音。そのはるか手前、僕の画面には得点を競い合う「僚友」からのチャットメッセージがリアルタイムで流れてゆく。

 かくて僕が「武装集団」に向けて無邪気に引いたトリガーは無人爆撃機の銃身に直結し、弾丸は銃口の数十メートル先に身を潜める少女の脳幹をあやまたず吹き飛ばす。

END ▲

064:洗濯物日和

「……梅雨前線は一週間後には後退し、日本中に晴れ間がのぞくでしょう……」
 画面には、週間天気予報。
 北から南までずらりと並んだ雨傘の一番右端、ちょうど一週間後の部分だけに、わずかに太陽マークの赤が見える。
 ――また「一週間後」?

 今年日本列島を覆っている梅雨前線は、例年とは明らかに異なる様相を呈していた。
 七月どころか八月に入っても一向に雨足が弱まる気配がなく、毎日毎日、必ず一度は馬鹿律儀にぱらぱらと来る。
 おかげで傘屋はさぞ大もうけだろうと思われるが、降られる身としてはかなわない。
 そしてもう一つ、この梅雨には妙な特徴があった。
 毎日必ず「一週間後には止む」兆候が見られるのである。
 週間天気予報の一週間後の欄には、毎日例外なく晴れマークが見られた。しかしそれは日付がいくら変わろうと一向にずれる気配もなく、いつまでも一週間後の位置に止まり続けている。
 気象庁には連日苦情が殺到するが、誰にどうする事ができるわけでもない。
 かくして待ち望んだ「一週間後」はいくら待っても来ることはなく、気象予報士はげっそりとやつれ、今日も雨は降り続けている。

 ため息をついて、彼女はテレビを消した。
 ――まったく、いいかげんにしなさいよね……
 彼女は、どんよりと煙った窓の外をいまいましげに睨んだ。
 しかしそれは所詮、嫌になるほど続いた愚痴の延長でしかなかった。
 この状況がどうにかなるなどという期待を、人々はとうに捨ててしまっていた。

 だが結局、大方の予想に反して、変化は起こった。
 夜半過ぎから強まった雨は夜が明けても弱まることなく、轟々と降り続いた。
 各種の警戒宣言や警報が飛び交う中で右往左往する人々を尻目に雨はなおも降り続け、次の日には文字通り「天の底が抜けたような」豪雨となっていた。
 そしてその晩、あちこちで河があふれ、堤防が決壊し、街々を押し流した。
 雨は七日七晩降り続け、地上の全てを荒野へと変えた。

 そして、八日目の朝。
 彼女は、雲間からのぞいた太陽の光に目を細めた。
 ――あら、当たったわね、天気予報。
 彼女は、汚れはてて元の姿も知れないぼろきれを拾い上げ、微笑んだ。
 ――いい洗濯物日和だこと。

END ▲

065:冬の雀

(未攻略)

066:666

 おばけだぞーの声にドアを見ると、シーツをかぶった息子が部屋に入ってきた。まだ五歳のこと、余ったシーツがずるずるたなびいて愛らしい。とはいえそのまま膝に上がってくる重さには、赤ん坊の頃を思い出して感慨深くなる。
「お化けさん、うちの子はどこに行ったのかな」
「食べちゃったあ」
 くすくす笑うシーツに、おやおや悲しいねえと返しながら口元がゆるみ――ふとこわばった。
 こんなに重かったか、この子は? だけでない、心なしか頭の位置も高いような……
 くすくす笑いが二つになっている。反射的にドアを見ると、笑いながらこちらを覗き込んでいるのは当の息子だ。ぞっとした途端、膝の上のそれがシーツをぱっと脱ぎ捨てた。
 子ども二人分の大笑い。膝の上で笑い転げるそれは真っ赤な肌に長い牙で、頭には二本の角があった。
「オークのジャンディだよ、パパ」
 息子が紹介すると、そいつは床に飛び降りてぴょこんとお辞儀した。
「えーと……幼稚園のお友達かな」
「そんなわけないじゃん」
 息子が得意げに言う。そんなことは分かっている。この場合、他にどんな言いようがあるというのだ。
「うちのクローゼットがジャンディのお家につながったんだよ」
「どうして」
 わかんなーい。小児二人が声をそろえた。うん、なるほど。ナルニア国パターンね。対処しようのないやつだ。
 しかし、となると問題がいくつか。
「ジャ……ンディのお家の人は、うちを知ってるのかな」
「うん。おんなじイタズラしたら、びっくりしてた」
 だろうね。うちの子がご迷惑おかけしました。と言うか躊躇なく訪問済みなんだな、オークの家を。
 まあ、生還できたところを見ると話は通じるらしい。最大の懸念はこれにて解決……
「パパがモンスターのお話を書く人だって言ったら、すっごく喜んでた。ご本読みたいって」
「そうか……」
 ため息が漏れた。
 確かに息子にはそう説明しているし、私が物書きなのも間違いない。
 ただし、正確には、ゴーストライターと言う。
 私の書いた本は何冊も世に出ているし、版を重ねているものもある。
 が、その中に、私の名前は一切ない。
 世間を偽り、息子にも嘘をつき、自分もごまかす、文字通り幽霊のような身である。いまさらモンスターにびびる資格とてないだろう。
「どうも、息子がお邪魔しております」
 いきなりの胴間声に、思わず椅子から飛び上がった。
 見るといつの間にか、ジャンディを二メートル半に拡大したような堂々たるオークが立っている。
「失礼ながら、心を読ませていただきました。というか、反射的に読めてしまうのです。ご事情よく飲み込めましたよ、理不尽ですなあ」
 呆然とする私を前に、オークはとうとうと続けた。
「わたくし、職場が地獄でして。嘘つきを罰するセクションなのです。いかがでしょう、もしお望みでしたら、あなたを使って利を得ている輩どもの地獄行きを早めるようサタン様に掛け合い……」
「いやいやいやいや」
 モンスター客のようなことを言い始めた相手を慌てて止め、ごくりと唾を飲み込むと、私は話し出した。
「僕も、正々堂々ゴーストを返上したいのです。ひとつ、そちらの世界を取材させてもらいたいのですが」
「もーちろん、大歓迎ですよ」
 甲高い別の声。
 見ると、戸口に巨大なシーツが揺れている。
「アタシら幽霊も、ニセモノの代名詞代わりにされちゃたまりませんからね」
 硬直する私の肩を、オークが万力のような手で掴んだ。
「魔界の総力を上げてバックアップしますよ。ひとつ、ご家族ぐるみのお付き合いを願いたいものですな」
 その背後から無数の歓声が湧き起こった。
 文字通り、地獄の一丁目に踏み込んだらしい。

END ▲

067:コインロッカー

 さようならだけを売っている店があった。あらゆる言語の別れの手紙。長い旅に出る人と交わした盃。手を振るSNSスタンプ。病室の枕元のキス。縁切り神社の絵馬。卒業式の合唱。船から港へ延ばす色とりどりのテープ。棺に入れた花。夢報せ。店を訪れる人はまれだったが、みな自分にふさわしいさようならを求め、棚を真剣に吟味した。
 もっと稀に他人のさようならを求める人もいて、今日の少女は隅の棚から小さなロッカーの扉をやっと探し当てた。
 開けた向こうは十五年前の冬で、少女によく似た若い女性があちら側から赤ん坊を中に差し入れる。赤ん坊は何重にも包まれ、顔だけ出して眠っている。女性が戸を閉める寸前、彼女と少女の目が合う。女性がか細い声でごめんねと言い、戸が閉ざされたとたん、全てはかき消え、残ったこちら側の戸の前で少女の涙がいつまでも止まらない。

END ▲

068:蝉の死骸

 路上の蝉の抜け殻がごそごそ動くのでひっくり返したら、小さなきりぎりすが入っていた。
 なんでもこれに包まっていれば七冬を越せるという噂があるそうで、ひとつ実地に試してみる気らしい。絵空事だと笑おうとしたが、人間界にもきりぎりすを不当におとしめた寓話があるのを思い出してやめた。何にせよ、連中が冬支度の概念を持たないという認識は改めねばならないようだ。

 だがもし本当にこいつが七年間を生き延びて地上に戻ってきたとして、生きている同類は七代あとの子孫であり、こいつの知り合いはみな死に絶えているはずなのだ。それを訊くと、もし自分の実験が成功して後の礎になるなら構わないという。芭蕉の詠んだ兜の下の奴も、ことによると同じ心でいたのだろうか。

END ▲

069:片足

 ええ、ちょうどこんな夜でしたよ……と、莨に火をつけて彼が言うには。

 ――靴をひとつ、作ってやってはくださいませんか。
 その老人は、彼の店先で遠慮がちに言った。
 ――ええ、良うござんすよ。
 店を閉めかけていた手を止め、彼は愛想よく答えた。
 ――一足で?
 ――いえ、ひとつ、です。
 老人は、傍らに眼をやった。
 おかしいな、と思いつつ、つられてそちらに目をやった彼は、息が止まるほど驚いた。
 ちょうど、老人のすぐ横に寄り添うように、ひとつの……小さな小さな、はだしの片足。
 薄くらがりの中でぼうっと白く見えるそれは、間違いなく小さな女の子のものだった。
 だが、そのふくらはぎから上は、宙に溶けるように消えていた。
 ――お孫さんですか?
 なんでもない風を装いながら、彼は尋ねた。
 ――ええ。
 お客は、目を細めて答えた。
 その様子に、彼はほんの少し、恐怖が薄らぐのを覚えた。
 ――それじゃ、寸法を取りますからね、足をこちらへ。
 台を取り出して彼が勧めると、小さな足はとことこと歩いて――まるで、残りの体もちゃんとあるかのように「歩いて」――台の上にちょこんと乗った。
 何やら妙にいじらしくなり、彼はその足の寸法を丁寧に取った。
 ――三日たったらまたおいで下さい、かわいい靴にしますからね。
 そういって、彼は老人――と「孫」――を送り出した。
 ――ええ、よろしくお願いしますよ。
 ちょうど子供の手を引くような格好で、老人は戸口を去っていった。
 そして三日後、やはり店じまいの間際に、老人はあの片足と一緒にやって来た。
 彼は、丹精込めて作ったかわいらしい靴を、お客に差し出して見せた。
 ――さあどうぞ、履いてみて下さいよ。
 その足は、そろりと靴の中に滑り込んだ。……と、それはぴたりと寸法どおりに収まっていた。
 ――おや、まあ、ぴったりだね。よく似合うこと。
 思わず表情を崩した二人の前で、その片足は踊るようにくるくるとステップを踏み――
 そのまま、すうっと宙に消えてしまった。
 あっと叫びそうになった彼に、老人が静かに言った。
 ――いえ、いいんです。本当にありがとうございました。
 その目元がうっすらと光っているのを、彼は見た。

 老人は、彼に靴一足分の金を払ったという。
 ――半分でいい、と申し上げたんですが、大事な孫の靴だから、っておっしゃいましてね。
 彼は、遠くを見るような目をしながら言った。
 ――もう二十年ばかしも前のことですが、今でもはっきり覚えてますよ。
 そう言って、彼は大きく煙を吐いた。

END ▲

070:ベネチアングラス

(未攻略)

071:誘蛾灯

 不意に、ぱし、ぱし、という音を聞き、僕は顔を上げた。
 見ると、頭上の蛍光灯に、見たこともない虫が何匹も体当たりしている。どうやら、床の隙間を通って階下の部屋から上がってきたらしい。
 虫は見る間に増え続け、僕はあわてて明かりを消して、外に通じるドア(僕の部屋から階下への階段は外にあるのだ)を開けた。
 虫が出て行ったのを確かめてドアを閉め、階下へ降りた。

 家の門のあたりは、まるで嵐のようだった。
 門灯を中心として、その周囲はもう、虫、虫、虫。飛び狂い、ぶつかり合い、その無数の羽音はごおごおと音を立ててうねっていた。
 何匹かが服にとまり、それに目をやった僕は思わずあっと声を上げた。
 背中の羽を除けば、それらはみな、小さな小さな人間の姿をしていたのだ。
 階下に住む大家が、笑いながら話しかけてきた。
「そうか、君はこれを見るのは初めてか。君の国にはいないのかね?」
 いません、と答えた僕に、大家は話してくれた。
 この虫(やはり「虫」だそうだ)は、毎年この季節に、こうやって大集団で交尾する。交尾といっても、こうして空中を飛び交っているときは相手を探しているときで、意中の相手が見つかれば羽を捨て、地上に降りて交尾をする。そして卵を産むと、オスもメスもすぐに死んでしまう――。
「交尾をするところを見ると、子宝に恵まれると言われてるよ」
 大家はそう言って、はっはっはっと笑い、彼の妻がその背をはたいた。

 翌朝、門の辺りに行ってみると、虫の姿はもうどこにもなく、ただ地面に無数の羽が散っているだけだった。
 一生に一度、恋をするためだけの羽。ひとつの明かりを中心として渦巻く、あの、夜の嵐のためだけの。
 だとすれば祭りなのだ、彼らの命は。そんな気がした。

END ▲

072:喫水線

 卓上の古い天気管にひどい結晶ができている。夕方、雲が怖いような勢いで流れていたので、やはり嵐が近いらしい。
 山の上の砦は砦というより小屋で、屋根が鳴りっぱなしのぎしぎしの奥から風音がうねり寄せてくる。もう慣れたことではあるが、時折それがひときわ強くなるのはまだ恐ろしい。そんな中で天気管の結晶の葉脈は信じられないほど精密だ。あまり覗き込むなよと先輩が言うが、見ていれば気が紛れるので、僕は細い一筋一筋を目がつりそうになるまで覗き込んでみる。
 と、葉脈がざわりとそよいだ。いや、それはそもそも結晶なのだが、しかし葉というよりは羽毛に似たそよぎで、いや羽毛というよりむしろ翼で、その翼がほどけて顔が現れた。
 巻毛のうつくしい子供の顔だ。
 それがにっと笑い、翼が再びそれを覆い隠し――ひときわ大きな風が砦を揺らしたはずみにランプが消えた。
 恐慌をきたした僕に構わず先輩が点け直したランプの灯の中、天気管の結晶はほとんど消え去り、台風一過を示していた。
 だから覗き込むなと言ったろう。ランプを机に置き、先輩が冷めた目で言う。あの、あの、天気管を指さして言葉の出ない僕に、そりゃ空模様を見る道具だから空の中の連中も見えるさと先輩は事も無げだ。

END ▲

073:煙

 叔父が危篤だと報せを受け、養護施設に駆けつけたのは私一人だった。もともと内気で人付き合いの極端に少ない叔父のこと、連絡が行ったのも私だけかもしれなかった。

 介護人の後に続いて薄暗い部屋に入ったとき、まず目についたのは部屋一面を埋める本だった。
 いや、本ではない。ノートだ。
 様々な幅の横罫線、あるいは方眼、あるいは無地。糸かがりにホットメルトにリング式。とにかく、およそこの世でノートと名のつくものを片っ端から集めに集めた様相だった。
 ――でもね、全部白紙なんですよ、それ。
 私の視線に気づいたか、介護人が言った。

 ――自分はいつか大作を書くから、ってよくおっしゃってはいましたけれども。
 そういえば、私が幼かった頃、まだ祖父の家にいた叔父がそんなことを話していた気もした。

 あれからほぼ二十年、ベッドに横たわる叔父の顔はがっくりと老けこみ、苔むした石のような沈黙を感じさせた。もういくばくもないのは一目で知れた。
 ――叔父さん。僕だよ、わかる?
 耳元で声をかけると、叔父は目をうっすらと開いた。
 だがその視線はうつろに宙を漂うばかりで、私の顔に焦点を結ぶことはなかった。
 こんな小さな部屋の中、たった一人で叔父は何を考えていたのだろう。ノートの海はどこを見渡してもただ白いばかりで、その断片すら窺うことはできない。

 と、不意にけほ、と咳き込む声。はっと振り返ると、叔父の体が微かに震えている。介護人が慌てて駆け寄り、叔父の耳元で名を呼んだ。しかし叔父の呼吸は次第に荒く、不規則になってゆく。

 そのとき――部屋中がざあっと黒くなった、気がした。

 文字だ。
 部屋を埋め尽くすノートたちの、白紙だったはずのページに文字が浮き出ている。
 私はその一冊に飛びついた。物語だ。もう一冊。これも物語。こちらも。あれも。先ほどまでの部屋中の白紙はみな、長短様々な物語でびっしりと埋め尽くされていた。
 私たちは片っ端からノートを確かめようとしたが、できなかった。その一話一話の何と魅力的なことか、これほど面白いものを今まで読んだ事がない。どのページにも私たちが思いもよらなかった世界が輝き、あふれ、ひしめいていた。
 叔父は、やったのだ。

 が、その文字が見る間に薄くなり始めた。読み進めようと慌ててページを繰ったが甲斐はなく、やがて叔父の命とともにあのきらめくような物語は残らず消えうせ、元の白い海に戻ってしまった。

END ▲

074:合法ドラッグ

 視界に入るたびにいじめていた子が二、三日休んでいたと思ったら、手首に包帯を巻いて登校してきた。
 事情はおおかた察したが、欠席日数を見るに引っ掻き傷と大差ないのだろう。人生の始末すら人並みにできない彼女のどん臭さを、私は陰で友人たちと笑い合った。

 * * *

 一時間目は何事もなく始まった。
 幸か不幸か私の席は彼女のすぐ前だ。普段なら配布物など回さないところだが、さすがに先生が意識している気配があり、私は不承不承プリントを後ろへ投げてやった。

 聞き慣れぬ小さな声が耳の横を通り過ぎたのはその時だ。

 ちょうど後ろの席の辺りからだ。始めは隙間風かと思ったが、すぐにそれが節回しを持っているのに気づいた。
 奇妙な声だった。少年のそれのように細く澄み、歌詞らしい文言は聞き取れない。すぐ近くでも聞き逃すほど微かなくせに、意識してしまうと耳を捕らえて離さないのだ。あるかなきかの旋律が波のようにたゆたい、目に見えぬ紋様を宙に描いてゆく。
 強まりも途切れもしないそれは私をとりこにし、チャイムが鳴るまで魅了し続けた。結局その時間の授業は何ひとつ頭に入っていない。

 * * *

 休み時間、さっそく友人とつるんで彼女をトイレに呼び出した。個室でいつものように足を蹴飛ばすと、彼女はたわいもなくよろけてドアの鍵に手をぶつけた。
 友人たちの押し殺した笑い。だが私のそれは喉の奥に詰まった。
 あの声。
 それが急に再び流れてきた。いや違う。延々聴き過ぎて分からなくなっていたのが、急にトーンを変えたのだ。
 先程までは一人の声だったそれが、確かに二重奏になっている。
 二つの声はほんの少しずつずれながら緩く絡まり合い、忍びやかなメロディを描いてゆく。その調べは先程にも増して離れがたく、私は自分が今何をしているのかをいっとき忘れ果てていた。
 友人たちの無遠慮な囃し言葉で我に返ると、彼女の手に傷ができていた。
 ぶつけた拍子に切ったらしい。友人のひとりが彼女を突き飛ばし、また新しい傷が増える。

 その瞬間、歌声が三重奏になった。

 まさか。私は凍りついたように傷を凝視した。
 別にどうということもない、かすり傷だ。だが見つめているうち、それがまるで薄く開いた口かなにかのように思えてきた。
 埒もない。頭で否定しようとしたとき、別の友人が彼女の頭をはたいた。どっと笑い。それでようやく、私はくだんの声が友人たちには聞こえていないらしいのを悟った。なのになぜか、声はまだ流れ続けている。これほどの大騒ぎの中ですら。
 と、彼女がふと顔をあげ、目が合った。
 表情のない目だった。いささかの喜怒哀楽も読み取れない。
 途端、チャイム。弾かれたように、私と友人たちは教室に急いだ。
 彼女は後からのろのろ教室に入ってきた。あの声はやはりその周りに漂い、調べは天井を抜けて空へ溶けゆくかに思われた。
 その日の私のノートは全科目、白紙に終わった。

 * * *

 帰宅後も、声は耳の底に残り続けた。宿題も何もかも手につかず、ただもう一度あの響きを耳にすることばかり願った。
 布団に入った後も目が冴えて仕方ない。牛歩のような時間の歩みに耐えかねて灯りを点けたが、さりとてできることもない。どうにも行き詰まり、いらいらと指のささくれをむしった。
 ぴりっと電気のような痛み。それに乗せ、まるで耳が通るようにあの声が聞こえ始めた。
 思わず打たれたように指を見下ろした。糸より細い血をにじませ、傷が歌っている。私の、この傷が。
 えも言われぬ陶酔。それは眠りを誘い、私は夢で一晩中、その声に酔いしれていた。

 * * *

 が、次の朝、登校した彼女が席に着いた途端、私の幸福は粉々になった。
 彼女の引き連れる三重奏が、私の貧弱なソロを無残に破り、かき消してしまったのだ。
 予想外の屈辱。無言で机の上に目を落とす彼女を、私はけだものの目で睨んだ。
 この落とし前をどう付けさせようか。頭で早くも休み時間のプランを練り始めたが、その時とんでもない事に気づいた。
 彼女の傷が増えれば、その分あの声が美しくなってしまう。
 致命的な事態だった。彼女の声に勝ちたいなら、少なくとも彼女にこれ以上怪我をしてもらってはまずいのだ。
 すぐさま私は友人たちにメールした。今日からはシカトしよう、あいつ汚いし、先生も怪しんでるみたいだしさ。友人たちは不満げだったが、先生の二文字が効いたか、みな同意してきた。
 その日の休み時間の味気なさたるや。後ろの彼女を脳内で三度ばかり八つ裂きにしたが気は晴れない。何とかしてあの声を打ち負かしてやりたい――

 なら、自分の傷を増やせばいい。

 身震いした。恐ろしい、だが現状唯一の解決策だった。
 周囲の目を盗み、私はそっとカッターを取り出した。

 * * *

 彼女の声は、日ごと弱々しく薄っぺらになる。傷が治ってきているのだろう。
 比べて私の声は、日を追うごとに荘厳に、軽やかに冴え渡ってゆく。
 ざまあ見ろ、この声こそが至高であり、私ひとりの喜びなのだ。間違ってもこんな女の後塵を拝することなどあるものか。
 もはや絆創膏を貼る場所も少なくなった両腕を抱きながら、私は彼女に勝ち誇った目を向けた。敗れた屈辱ゆえにか、彼女は私を見ようともしない。

END ▲

075:ひとでなしの恋

 永劫の闇に、ひとすじの光。

 夢じゃないのか。目の前の光景が信じられず、彼はそう思った。
 そこには、一人の若い女――彼がただ一人だけ愛し、死に別れた女。
 その女が、生きていたころと変わらぬ姿でそこに立っていた。

 彼と女は、スラム街で兄妹のように育った。
 親の顔など知らないし思い出もない。あるのはただ、それ自体が戦争のような毎日と、知恵の遅れた彼女だけ。
 彼女を守るため、彼は何でもやった。お定まりのスリ、かっぱらいから恐喝、詐欺、麻薬の密売などを経て、行き着いた先が殺し屋だった。
 彼のパトロンは大物で、二人を養うには何の不自由もなかったので、彼はしばらく安心して生きていくことができた。
 人殺しに抵抗はなかった。それまでも死は日常だったし、何より彼女につらい思いはさせたくなかった。そのためなら何でもできた。
 だがある日、そのパトロンが暗殺され、事態は急変した。二人は追われる身となり、彼は彼女を連れて逃げたが、その道中、彼女は病気になり、あっけなく死んだ。自棄になった彼も程なく、追っ手の凶弾に倒れた。
 そして、次に目覚めたとき、彼はこの果てしない暗闇の中にいた。以来、ずっとここにいる。
「ここ」がどこだか見当もつかないが、ひとでなしの行き着く先が天国でないぐらい、心得ていた。

 目の前の女が、昔のままの笑顔で彼を見上げている。
 その背には、真っ白な翼。
「何だ、天国から脱走でもしてきたか」
 ようやくそれだけ言い、彼はその体を抱き寄せた。

 と――彼女の背後に、彼はもう一人の人影を見た。
 白い服。彼女と同じ白い翼。美しい顔立ちをしていたが、その表情は険しい。
「その女は、天国から抜け出した者。こちらに渡してもらおう」
 彼は、腕の中の彼女を見下ろした。おびえた顔。
「はは、それじゃ本当に脱獄か。やっと前科一犯だな」
 安心させるように、彼は笑顔で言った。
「聞こえないのか」
 人影――天使というべきか――が、苛立った声を上げた。
 居丈高なその態度が気に食わず、彼は右手を握りしめた。
 と、その中に、手に馴染んだ感覚。
 ベレッタ。
 彼女をかばうように後ろに押しやり、彼は、生前愛用したその銃を天使に向けた。
「愚かな」
 天使が鼻先で笑う。
「人間の分際で、我らに敵うとでも思っているのか」
「さあな、そいつは分らねえぜ」
 安全装置をはずしながら、彼はにやっと笑った。

「何たって、俺は『ひとでなし』だからな」

END ▲

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